腕時計と万年筆
時代の変化とともに、進学祝いも様変わりしたが、私たちの時代、特に中学校への進学祝いと言えば「腕時計」か「万年筆」が定番であった。その頃、「中1時代」という雑誌があり、4月号の付録が「万年筆」であった。すでに祝いとして腕時計を買ってもらっていた私は、その付録欲しさに雑誌を手に入れた。
小学校から中学校に上がる。私服から詰め襟の学生服に変わる。当時の私にとって、それは、大人になるということだった。そして、その思いを確たるものにするツールが腕時計と万年筆だった。
当時はまだクオーツが一般化していない頃で、当然私の腕時計は「自動巻き」だった。時計の中にゼンマイを巻くための“おもり”が入っていて、腕を振るたびに「ビューン」とうなる。歯車が動く音も心地よい。決して軽くはないが、精密機械を身につけているという満足感があった。しかし、2、3ヶ月たった頃、でたらめな時間を示すようになった。私が面白がって、「ビューン、ビューン」と振り回していたせいであろうか。父は、「安もんはあかんなぁ」と言った。
一方万年筆はというと、こちらも付録。使い続けるうちにインクは詰まる、ペン先は割れる。やっぱり2、3ヶ月で使えなくなった。
当時は腕時計も万年筆も高級品で、そう簡単に手に入れられるものではなかった。薄給の父親に無理を言うこともできず、泣く泣く処分した。安物ばかりを収集する現在の私の癖の遠因がここにある。
ものの魅力は当然値段だけでは測れないが、高級品と呼ばれるものにはそれなりの品位がある。その品位に見合う人になりたいと、人は努力してそれを手に入れる。何百万もする腕時計や万年筆が欲しいわけではない。ほどよい価格で納得できる性能の“もの”に出会ったとき、ほんの少しだけ人生が豊かになったような気持ちになる。実用上は何の問題もないが、百均で売っている腕時計や万年筆にはその豊かさを感じない。“もの”好きの屁理屈がそこにはある。