北高 校長室から 125 神戸北高「淡河校舎」#3 校舎竣工記念誌
《 #2 の続き》
★「淡河校舎」第3回目です。
実は、平日より、今日のような休日の方が落ち着いて書きやすいのです。
今日の投稿は、北高に残る資料からの抜粋ですが、かなり長い文章なので、一件のみとしたいと思います。
前回記した最後の校舎長、松下勝之先生が、昭和50年10月1日刊行の「校舎竣工記念誌」に、「淡河校舎のあれこれ」と題して書かれた文章です。
■まずは、その全文を原文のまま掲載します。
先づ以って、施設のご完成を、心からお祝い申し上げます。
さて、「淡河について書け」とのことだったのですが、既に静かに幕が降ろされた後で、殊更ら取り立てて、申し上げることはありませんが、それではお答えになりませんので、下手な愚感を、書かせて頂くことにしました。既に、ご承知の方も多いかと、思いますが、淡河校舎は初め、兵庫県立有馬高等学校淡河分校と、申しました。昭和二十三年に誕生しました。昭和四十三年に家庭科(*1)に転じております。極く最初の滑り出しは、生徒数は二十三名で、男子七名、女子十六名となっています。当初から女性が多く、その後も女性の多いのが特色でした。特色と言えば、設置を、地元が要望したと言うことで、施設、設備一切は、地元の無償、無期の貸与で、県は一切、無関係、無干渉とされています。最終に受けた地元の双肩に総てがかかる羽目に仕組まれています。結局、最終への皺寄せと言うことですね。まだまだ、敗戦の痛手を諸に被っていた時代ですから、例へ小規模でも分校を全国隅隅まで普及徹底させようとすれば、こうするよりなかったでしょう。然し、これが其後分校の大きな致命傷となりました。これも一概には言えません。やっぱり、地元の力関係が大きく左右しているようです。でも、この条件が分校の施設、設備を全く固定したことは事実です。いずれにしても、分校を丸抱えのような形では地元の大きな負担ですからね。例へ仮りに、地元から犠牲を強いられたことがあったとしても、当然だったでしょう。ですから、世の中が次第に好くなり、一般も豊かになればこんな中途半端な施設は無用になり、煩わしくなるのは当然でしょうね。然し、分校としては随分酷いことのように思います。私も分校在職中、この種の苦い体験は言い尽せない程しました。結局、開校(*2)までの二十七年間は、開校僅かにして早くも坐折感に付き纏はれ、其後幾度も存廃の岐路をさ迷い、求めざる運命に翻弄され、不遇に終始したと言えましょう。淡河が最後に統合を選んだのも、惨めな体験から得た執念のようなものかもしれません。私達は長年にわたり「分校運営の正常化」を訴え続けました。然し、頑として取入れられず、結局、全て徒労に終りました。後は独立か、統合か、自滅以外にありません。勿論、独立へ懸命の努力がなされました。然し、独立を妨げる牢固な障壁に阻ばまれ、止むなく統合へ慎重に摸索しはじめた時偶然、当時の校長から「同地区に新校が誕生する。新校と統合しては、共に手をたずさえ出発する好機」と誘われました。余り突然だったので地元も随分迷いました。然し、最後に直接県の熱心な勧めがあり統合と決まりました。紆余曲折はありましたが、自から選んだ道でした。一五〇余名の生徒達もこの統合を歓び、新校を私達の学校として、その誕生を心から祝い、大きな喜びと期待を寄せ万感の思いをこめて、開校の日を待ち焦がれていたようです。然し、開校後は、色々な事情から、校舎は別でした。淡河に残留した生徒達は有野の仮校舎については、最初から不自由を忍ぶ、後輩達を気遣い、自分達については様々な想い出をひめた懐しの校舎ではあるが既に、淡河分校は消え、ここも仮りの校舎、むしろ、共に学ばれない孤独と、悲しみをジーッと堪え、かなえられないことを知りつつ、共に学ぶ日を最後まで、願い続けていたようです。やがて、これら一五〇余名も一回、二回に分かれ、池内校長先生手ずからの卒業証書をしっかり胸に抱き締め、母校の歴史の劈頭を飾る栄誉を得た幸せを喜び、感謝しながら誇らかに巣立って行きました。
唯、最後まで両校舎に分かれ、遠距離、交通不便といった制約を理由に、在校生諸君との交歓もならず、相互理解も図れないまま、相互に違和感が生れ、まるで、異質の者のように終らせたのではと心底後悔しています。淡河の彼女達は諸君を片時も忘れていなかったようです。そして貴君達と肌で感じあえるような温かい交流を最後まで願っていました。私が今一番、彼女達に気毒に思い、強く責任を感じていますことは、何ぜ最っと、細やかな配慮と努力をしてやれなかったか、であります。
色々申しましたが、私はいずれの年か、彼女達が貴君達と共に手をたずさえ母校(*3)に貢献される日のあることを心から祈っています。彼女達は今も母校に想いを寄せ、何時の日か何処かの職場で巣立たれた貴君達と巡り合える日を楽しみにしています。この拙い私の文章が今一度後輩諸君の心の中にこのような先輩がいたことを呼び起して頂き、深いご理解を頂ける一助ともなればと祈っております。長々有難うございました。最後に、御校の益々ご発展あらんことを、ご関係各位のご多幸をお祈りしつつ筆を置きます。
■文字が詰まりすぎて読みにくいかも知れませんが、段落区切りは、原文のままです。
以下、失礼ながら、私が注釈を付けさせていただきました。
(*1) 「家政科」の間違いか?
(*2) 「閉校」の間違いか?
(*3) 神戸北高校のこと。
前回に掲載した「碑文」の現代語版といった内容でしょうか。
あの漢語調の碑文では表現しきれなかった、松下先生のより細かな心情をはっきり感じることができます。
県立有馬高等学校「淡河分校」3代目分校長(最後は校舎長)であられた松下先生は、当然ながら、「淡河校舎」、そして、それが閉舎になることについては、強い感情をお持ちであったことがうかがえます。
それと同時に、ここに書かれているような想いを抱いた「淡河校舎」の女子生徒たちの気持ちを思うと、後半~最後の段落は、特に感慨深いです。
その後、「何処かの職場で巣立たれた貴君達と巡り合える日」は、あったのでしょうか。
当時の新設校、神戸北高校の生徒たちは、「淡河校舎」の存在、そして、そこに、このような想いを抱く女生徒たちがいたことを知っていたのでしょうか…。
《 #4 に続く》
兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥