北高 校長室から 293 神戸北高「淡河校舎」#11 新たな資料発見

#10 の続き》

「淡河校舎」については、今月中にあと1回乃至2回書こうと思っていたのですが、新たに当時の貴重な資料を見つけてしまいました。

このような昔の「青焼き」(と呼ばれていたと思います)のコピーです。原本はB5判で、ご覧のように和文タイプライター打ちです。

この「淡河分校の今後のあり方について」と題された文書を書いたのは、「兵庫県立有馬高等学校淡河分校 振興委員会」、つまり、淡河分校末期に、分校の行方を模索していた中心的組織でありますので、ここに書かれていることは、当時の状況を最も正確に表していると思われます。

#10 に載せた資料の内容と似ていますので、特に「新発見」ということはないのですが、#10 の資料の裏付けとなるものであり、「やっぱり、そうだったんだね」と思わせるものであります。

再度書きますが、この資料の日付は、昭和48年1月13日。つまり、北高開校のわずか3ヶ月前にも満たない日です。北高開校前の淡河分校では、少なからぬ「混乱」があったことが想像できます。

今回見つけた資料は、文字数(ページ数)はそれほど多くはありません。以下に、原本と文字起こししたものと、2つのPDFファイルを掲載します。原本の方は読みにくいと思います。しかし、最後の方にある手書きのメモは文字起こしはしていませんので、原本でのみ見ることができます。

「この資料をどこで見つけたか?」ですが、校長室内です。赴任してすぐ、私は校長室の書棚の整理を始めました。が、ある一角だけ、整理できてないままになっていたのです。それは、初代池内雄一校長が残した、かなりの量の書類でした。

量も多いうえに、雑に詰め込んであるだけみたいな状態だったので、去年から書棚の外に出したまま、コロナ禍を含む本業の多忙さから、そのままになっていました。それをごく最近、ようやく整理した中で見つけたものでした。

初代校長の開校当時の書類だけが、50年近くもずっと校長室に保存されていたのです。感慨深いものがありますが、整理中に「読みふけって」しまうのはアキマセン。そんなことをしようものなら、整理は全然進みません。けれども、「陳情書/要望書」をはじめ、極めて興味深いものばかりです。

この下の写真の中の新聞記事は、開校した年の夏、昭和48年8月25日のものです。この頃の北高は、北区有野台5丁目2番、昭和49年4月1日に開校する市立有野東小学校となる校舎にいました。写真を見ると、この頃の北高の敷地は一面の田んぼ(何もない土地)。校舎建築工事は、そんなペースで進んでいたのですね。

これから用地を造成しようとしたら、唐櫃団地の住民から「工事車両は入ってくるな」との反対に遭ったとあります。「工事公害を心配する建設予定地隣接団地住民の反対などで、着工もできずに宙に浮いたまま、計画はベタ遅れ。来春に予定していた新校舎移転もままならない…」とあります。

実際、現在の地に移転してきたのは、翌昭和49年4月ではなく8月のことでした。しかし、見方を変えれば、この時点で何もない土地に、一部未完成とはいえ、よく翌年までに校舎を造れたものですね。

なお、新聞記事では有野台小学校とありますが、確かにこの時には有野東小学校は存在していませんでした。有野東小学校は、先に書いたように昭和49年4月1日に有野台小学校から分離独立して開校しています。そして、2019年には再び有野台小学校と統廃合され、現在は市立ありの台小学校となっています。

開校直後の有野東小学校には、昭和49年4月から7月まで、北高1・2年生と有野東小1年生が同居していたことになりますね。

また、開校初年度の各種学校行事の記録も多くあり、本当に興味は尽きません。これら全て、整理してデジタル化できれば…などとも思いますが…。

50年前と今と、基本的には「学校でやっている事」は同じだと感じますが、「今と全く同じやんか!」と思うことと、同じ事をしていても「やり方はかなり違うな」と思うことと、2種類に分けられるように思いました。というわけで、整理しながら、読んだり写真を撮ったりにかなり時間を費やしました(笑)。

書類の写真も、ここに載せている何倍か撮りました(怖)。やはり、なぜか、「古いもの」には惹かれる性質があると思われます、ワタクシ。

#12 に続く》

兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥