北高 校長室から 278 神戸北高「淡河校舎」#9 衝撃的事実の発見
《 #8 の続き》
昨日、淡河校舎シリーズを書き始めてすぐに生まれた大きな疑問に答えてくれる衝撃的な発見をしました。半世紀近く前、昭和48年度(1973年度)当時の資料を見ていて、たまたま見つけました。
その資料ファイルは、もう1年近く前になるでしょうか、T先生が校長室に持ってきてくれたものです。私が淡河校舎についてブログに書いているのを見て、「図書室で見つけた」と言って持ってきてくれました。
先生方が、そのように私に何か「ネタ」を提供してくれることは時々あります。とてもありがたいです。
最後は、修学旅行の旅先から学校に宛てた電報文です。コピー用紙は、今のようではありません。2種類見られ、一つは上の写真にもある(「青焼き」と呼ばれていたと思います)「感光紙」を使うもの。もう一つは名前は分かりませんが、普通紙ではありません。公文書の体裁は、基本的に今と同じですが、殆どは手書きです。手書きでないものは、「和文タイプライター」ですね。
問題の発見は、このファイルの中にあったのですが、そもそも私の疑問というのは、次のようなことでした。#4 にも書いたことでした。
昭和57年(1982年)10月8日刊行の「創立10周年記念誌」に、「輝かしい10周年に際して」と題して最後の校舎長であった松下先生が書かれた文章の中に、次の一節があります。(全文は #4 にあります)
「開校式に代表として式に参列しました36名の生徒が、予想だにしなかった霹震(へきれき)にも似た惨めさを味ったことでした」
松下先生は、淡河校舎が閉校舎となる頃には、かなり強い感情をお持ちで、当時の文章にもそれが表れていましたが、それから10年が経ったこの文章では、だいぶトーンが和らいでいました。そんな中で、このように強い調子で書かれているのです。なお、「36名」と書かれていますが、これは「8名」の間違いであると思われます。
「ここまで書かれるとは、一体何があったのだろう?」と思いませんか? これが、約1年間、私の大きな疑問だったのです。
さらに(本題の前に)、当時の「淡河校舎」が、「本校」である北高からどう思われていたかを如実に良く表している資料があります。これらは、当ブログ初登場です。まずは、昭和50年10月1日刊行の「校舎竣工記念誌」に当時2年生であった生徒会長が「思い出」と題して書いた文章です。太字は私によります。
僕が、生徒会長になって、今月で九ヶ月になりました。
今まで、何をしたのかと尋ねられると、すぐに答えはでてきません。それは、今まで事務的な、小さなことばかりやっていたからです。
現在までで生徒会活動のうち一番心に残っていることは、予算案作りの時のことです。……(中略)……
その次に、心に残っているのは、第二回卒業式のことです。
神戸北高校は、今年で、一年生から三年生の全学年がそろったと思っていましたが、淡河といって唐櫃台よりももっと北の方に神戸北高校淡河校舎という、女子ばかりの学校があったのです。なぜそういうところにあったのかというと、その学校は、最初、有馬高校淡河分校だったそうです。
そして、神戸北高校が開校すると同時にその有馬高校淡河分校が神戸北高校と合併して、神戸北高校淡河校舎となったわけです。人数は、非常に少なく、八十名ぐらいでした。その前年度も卒業生が、やはり女子ばかり、八十名ぐらい卒業したそうです。だから今の三年生は、神戸北高校の第三回生になるのでしょうか。その卒業生へ送るはなむけのことばを卒業式の、一時間前ぐらいまで思いつかなかったのです。なぜ思いつかなかったかというと、その淡河校舎と本校とは生徒間ではまるっきり交流がなく、卒業式があると聞いて、始めて、淡河校舎の存在を知った訳でした。そのため、新旧役員の方々に助言をしてもらって、なんとかはなむけのことばを考えつきましたが、それを覚えるのにまた苦労をしました。しかし、卒業式の本番にはうまく話せることができました。
……(後略)……
ちょっとややこしいかも知れませんが、これが書かれたのは昭和50年度。彼も書いているように、この年度になって初めて、北高では1~3学年が揃いました。この年度末、昭和51年2月25日に、「北高第1回生」の卒業式を行っています。
なので、彼が文中で「第二回卒業式」と書いているのは、昭和49年度末、つまり昭和50年2月25日に淡河校舎で行われた、淡河校舎最後の卒業式のことなのです。だから、彼の言うとおり、昭和51年2月25日の卒業生は、「北高第3回生」であったはずなのです。
しかし、事実はそうではありません。その卒業生は「北高第1回生」であり、「北高淡河校舎」で昭和49年2月25日と昭和50年2月25日に行われた卒業式での卒業生約150名は、「北高の卒業生」であるはずなのに、どこにも表れず、闇に葬られたようになってしまっているのです。
★これら2回の卒業生は、当時の配布物では、「『第1回』『第2回』卒業証書授与式」と、後の周年記念誌等では、「『昭和48年度』『昭和49年度』卒業証書授与式」と書かれていて、神戸北高「1回生」「2回生」とはなっていません。しかし、本校が永年保管として管理する「卒業生台帳」に載る卒業者第1号は、昭和49年3月(昭和48年度)に卒業した「淡河校舎」の名簿先頭の者となってはいます。
このことは、私は、淡河校舎シリーズを始めた当初から気付いており、#1 では「幻の北高卒業生」と書いています。いや、最初にそれに気付いたからこそ、淡河校舎シリーズを始めようと考えたと思います。
先の生徒会長の文章を読むだけでも、かなり私の疑問の答になっているかも知れません。淡河校舎が存在していた当時の神戸北高生でさえ、淡河校舎のことを知らなかったのですから…。
次には、このことを淡河校舎側の資料で見てみましょう。前述の2回の「淡河校舎卒業生」の卒業アルバム編集後記の文章です。原文のままですが、「/」の箇所は、実際には改行されています。
神戸北高校 第1回卒業記念アルバム 編集後記
私達の懐かしい学舎が私達が去って間もなく消えるこの事実…そうではない永年希っていた独立が実現したのだと思い返そうとする足許から冷たい風がスーツと吹き抜けていく。そして幾年月学び友と談らい若い血潮をたぎらしたこの学舎が胸にジーンと込み上げてくる。
私達が去りにし後何方を追い何方を尋ねん? 誰かが一度は身を以って味わはなければならない苦い試練と…、そのときにめぐり逢った私達、万感胸に満ちい(い)ようのない涙が冷く頬をぬらす。
巣立ち行く私達は今度こそ私達の学舎がいついつまでも永劫に栄え、大きく繁り実ってくれることを、まだ見ぬ学舎に心から祈ると共に尋ね行くであろう私達を温かいお心でお迎えください。
それだけに私達にとってこゝに飾られた一葉一葉の写真はよりなつかしく意義深いものだと思います。
なつかしかった高校生活の想い出をいつまでも大切に心の奥深くしまっておきましょう。
失意や孤独のとき、このアルバムを開いて下さい。
なつかしい師や友の顔、声が浮び貴女の心を温くいだいて下さるでしょう。
皆さんお元気で果てしない未来に幸多かれと祈ります。
編集委員一同
神戸北高校 第2回卒業記念アルバム 編集後記
私達を温くつつんでくれた/この懐かしい学び舎も/私達と共に静かに幕を閉じることに/なりました。
今蛍雪の功なって/人生航路を旅立とうとするとき/今は去りゆく/楽しいこと苦しいことの一つ一つの想い出を/大切に巣立ち行く私達の/進む道はひとりひとりちがっても/果てることなく手を組んで/社会の荒波に向かって/希望をもって邁進されんことを
編集委員一同
なんか、切なくて泣けてくるのは私だけでしょうか。独立を願っていた彼女たちの願いは叶わず、自分たちの学校は消えるのみ…。
以上の資料を読み返してみただけでも、私の疑問の答になっているように改めて思います。でも、極めつけの資料が、昨日冒頭のファイルの中に見つかりました。昭和48年5月19日、つまり、神戸北高校が生まれた年の5月に発行された、淡河校舎の「校内新聞」です。
問題は、『開校式』に行って と題された下の文章。誤字と思われる部分も原文のままにしていますが、2箇所の「注」は私です。「★」ごとに4人の生徒が書いたのでしょうか。
★我校から開校式に出席したのはたったの八人で、新入生二百七十人に対してはあまりにもみじめであったような気がする。完全に圧倒されてしまってどこか知らない所へ行ったような気がした。
新入生を見て…私よりずっと皆が年上の人達のような感じを受けた反面私達はいつまでもある一部分にでも子供のようなおさなさというのか、かわいらしさが残っていてうれしいような気がした。
★私達はいったい何の為に開校式、入学式と出席したのだろうか。
いろいろな人達の話には、ほんのひとかけらも私達のことは出て来なかった。
私達【注: 淡河校舎】三年は一期生で、二年が二期生であるのに、そこでの話は【注: 神戸北高】一年が一期生であるといわれたこと。本当にくやしかった。
それから制服、女子も男子も私服みたいだった。もっと学生らしい方がよかったかも…。
★入った時あまりの人数に圧倒された感じであった。始めての入学式だからもっと盛大にやるのかと思っていたが、何となくしらけているようすに思えた。新校長のあいさつでも紹介してもらっただけでひと言も言わなかったのです。それに来賓の祝いのことばは入学してきた一年ばかりのことを言って私達のことはまるで無視。忘れていたにしてはちょっとひどすぎやしませんか?
ほんとに何しに行ったのかわかりませんでした。
★開校式に出席した八人と先生方の心にいいようのない激怒と不安とくやしさ、なさけなさが胸にしみこんで頭から離れようともしない言葉がありました。「第一回入学生である君達には過去はない。したがってこの神戸北高校は君達の手で造り上げていってほしい。第一回入学生であるから第一回卒業生になるだろう」と言う教育委員会からの祝辞でした。私達をまるで無視した言動ではありませんか?
おまけ、やっかいもの、なくてもよい、いえ私達なんて関係ないんだ。そんな感じさえした位でした。
「やっぱりね…」「思ったとおりや」でありますが、「激怒」という言葉さえ出てくるなど、ここまで激しい感情があったとは思いもしませんでした。だから、最初にこれを見たとき、たいそう驚きました。原本をPDFにして掲載しておきます。
現存する様々な資料から、神戸北高校淡河校舎(有馬高校淡河分校)は、悲しく不本意な最後を迎えたことが明らかとなりました。
戦後間もなく、地元の教育のために産声をあげた分校であったが、時代の波に翻弄され、末期には独立が地元と学校関係者の悲願であった。時を同じくして、県教委から新生神戸北高校と合併して生き残るように執拗に説得された。希望を託してその道を進んだが、以上に書いたように、最後は無理矢理閉校に追いやられただけのようなもの…。
最後の校舎長である松下先生の願い「兵庫県立神戸北高等学校ト合シ永遠ニ継承セラル」は叶わなかったことになるのでしょうか。私は、せめて、関係者の悔しい気持ちをここに記し、多くの方々に知っていただきたいと願います。
※昨日、「校内新聞」と同時に、生々しく当時の様子が知れる別の資料も見つけました。こちらはページ数が多く、解読と文字おこしに時間がかかりそうです。
《 #10 に続く》
兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥