北高 校長室から 118 神戸北高「淡河校舎」#1 淡河分校跡記念碑

神戸北高は、昭和48年(1973年)4月1日に開校したことは、よく知られていることと思います。

でも、開校当初から現在の校舎がほぼ完成するまでの約1年半もの間、のちに(昭和49年4月1日に)市立有野東小学校となる「仮校舎」で過ごしたとかいう状況は、それほど知られてないのではないかと思います。「仮校舎」といっても、最初から有野東小学校の校舎として建設しているので、しっかりした建物ではあったのですが。

「開校からしばらくは、プールもなく…」などという話は、他でも聞いたことがありますが、開校から約1年半も、遠く離れた仮校舎で過ごすというのは、土地の買収などが難航した結果なのではないかと思わせるところです。

このような開校当時の様子は、各周年記念誌等には書かれているのですが、私としては、私の在任中に、集められる限りの写真とともに、一つのデジタル記録として、まとめ上げたいと考えてはいます。

さて、今日のお話は、北高の「淡河校舎」についてでありまして、「淡河校舎」ともなれば一層、何もご存じない方が多いのではないでしょうか。
そこで、何回かに分けて、この「淡河校舎」(「分校」ではない)について調べて書き留めておきたいと思います。

「探偵ナイトスクープ」みたいな感じになるのでしょうか?(笑)

※北区淡河(おうご)町は、神戸市に編入された昭和33年(1958年)2月までは、美嚢郡淡河村といいました。なお、当時の神戸市に「北区」はなく、唐櫃台あたりも含めて、昭和48年(1973年)7月までは「兵庫区」でした。なので、北高の開校当時は、まだ「兵庫区唐櫃台」だったのですね。

■ざっくり言うと、

・戦後の混乱期である昭和23年、地元の努力によって、県立有馬高校「淡河分校」ができた。
・その後、農業科を経て家政科が置かれたが、学校の存続が困難となってきた。
・昭和48年4月1日に県立神戸北高校が誕生したのと同時に、有馬高校淡河分校は、北高の「淡河校舎」として「統合」された。

昭和48年4月1日当時、生徒募集を停止した「淡河校舎」には、新2年生と3年生(家政科2クラスずつ)がいました。
北高の一部として「統合」されたといっても、淡河校舎は以前のまま、何の変化も起こりませんでした。

淡河校舎の女生徒たちは、神戸北高校という独立した学校(の一部)になったことを喜び、「本校」との行き来が生まれることを夢見たそうですが、物理的にかなり離れている「本校」(北高)との「交流」は、結局最後まで一度もなかったそうです。

当時の彼女たちの気持ちを思うと、一種悲哀を感じるのは、私だけでしょうか。
このことは、私が「淡河校舎のことを調べて後生に残そう」と思った理由でもあります。

その後、昭和48年度末(49年3月)と昭和49年度末(50年3月)の2回、淡河校舎から卒業生が出たあと、昭和50年3月に淡河校舎は閉舎となり、姿を消しました。

「本校」である神戸北高は、開校した年度末に、いきなり卒業式をしたわけですね。
その次の年度末にも、同じく淡河校舎の卒業式を行いましたが、更にその翌年度(昭和51年3月)になって初めて、「本当の」北高1回生の卒業式を行ったわけです。

※「統合した」といっても、淡河校舎のこれら2回の卒業生は、「北高1・2回生」とはなっていないのです。まさに、「幻の北高卒業生」ですね。

さて、最近になって、淡河校舎があった場所に、記念碑があるらしいということを知り、今日(土曜日)行ってみることにしました。
住所表示では、北区淡河町淡河581番地(または、淡河町淡河字長松寺)だったらしいです。

この場所は、県道三木三田線の「淡河本町」と標識のある交差点、「道の駅 淡河」や「豊助饅頭」本舗がある交差点と言えば通りが良いでしょうか、その交差点を北区山田町/箕谷方面に少し上がったあたりのようです。

その番地のあたりは、今は、このような介護老人保健施設「うらら」になっているようでした。
上の左の写真が、道路ぎわの正門あたりです。

最初、記念碑だから、敷地の隅にひっそりと立っているのではないかと思い、写真の建物の向こう側、敷地の周囲を一周してみました。
が、何も見つからず。

やっぱり、今はもう何も残っていないのかな…、それとも、中に入って誰かに聞いてみようかな…、などと思いながらふと振り返ると、上の右の写真の茂みが目に入りました。

さらに目を凝らすと、茂みの中に、石碑状のものが❗

上の写真のように茂みの中に入っていくと、このように、まだちゃんと記念碑は残っていました❗
しかし、大小の木々は伸び放題で、普通に通行するだけでは、恐らく気付きもしないことでしょう。

記念碑の文字は、当時の兵庫県知事、坂井時忠さんが揮毫されたようです。
この坂井時忠さんは、私の子どもの頃の記憶に残っている名前ですが、当時、県知事が揮毫するということは、かなりの大事だったのではないでしょうか。

注意するべきは、この記念碑、(有馬高校)「淡河分校跡記念碑」なのです。最後は(神戸北高校)「淡河校舎」だったのに、「淡河校舎跡記念碑」ではないのです。

こちらの碑文は、昭和50年(1975年)3月に最後の卒業生を送り出したあと、建てられました。

文章は、最後の校舎長であった松下勝之先生が書かれたものですが、有馬高校淡河分校が生まれた経緯、そして、新設の神戸北高に統合されたことなどが書かれています。

戦後の混乱期に苦労して開校した「淡河分校」のことを後生に伝えたいお気持ちだと思います。
難しい漢語調ですが、次回 #2 以降で、文字起こししたものをご紹介したいと考えています。

この記念碑のある場所は、山田町/箕谷方面に向かう国道428号線に面しています。
淡河校舎の敷地の一隅に当たると思われます。
すぐ隣は、かなり古そうな(校舎があった頃も?)墓地でした。

#2 に続く》

兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥