北高 校長室から 277 神戸北高「淡河校舎」#8 1年前のまとめ

#7 の続き》

今日4回目の投稿となりました。前号276号で「淡河校舎に関する衝撃的な事実を見つけた」と書きましたが、それは、やはり長い記事になりそうです。実は元々、今日最後に、それとは別の淡河校舎に関する短めの記事を書くつもりでした。

それに続けて今日の発見についても書こうかとも思いましたが、別投稿にします。そのあとで、今日の発見を基に長い記事を書きたいと思います。これまでずっと持っていた疑問に答えてくれる、大きな発見なのです。

さて、淡河校舎について長い間放っておいたものだから、私自身完全に忘れてしまってました。ちょうど1年前、「まとめ」のような資料を作ったのです。配布先は、このブログや北高の教職員、北高に関係の深い方々でしょうか。

時期を正確に言うと、去年の2月下旬です。そうです。その直後に、寝耳に水の「臨時休校」の知らせが入ったのです。なので、その後はそれどころではなくなってしまい、つい先日に思い出すまで、忘れ去ったままでした。

なので、まず、その資料をPDFにて掲載させていただきます。当ブログ淡河校舎シリーズ #1#4 で書いた内容は、この資料の中に含まれています。

文書の中身を含めて「令和2年」とあるのは、間違えているわけではありません。1年前に作成したものです。また、先日から #5 以降を投稿しているように、随分「新発見」も増えているので、またやがて新しい版を作らなくてはなりません。


あと一件は、#4 を参照していただきたいのですが、そこにも載せた「校舎竣工記念誌」に載っている2枚の写真の原版を見つけたのです。灯台もと暗しで、校長室にあった古いアルバムの中にありました。

1枚目の校舎の写真はいいとして、問題は2枚目の記念碑の写真です。#4 にも書いたように、あの不鮮明な写真でも、現在の立地とは異なることが分かります。この鮮明な写真だと、一層はっきりします。

背景の林の様子を見ると、現在の立地と似ていると言えるかも知れませんが、この写真では今とは明らかに違って、小高くなった築山のような場所にあります。今はない「階段」や高い木もあります。ただ、記念碑と石碑は、位置も現在と同じです。

最初はこのように石積みした上に設置したが、後に平地にして現在のように置き直した? 「何のために、わざわざそんなことを?」ですよね?

となれば、最初は今とは全く違う位置にあったとしか考えられませんね。謎です!
写真最下部左に写っている配水管の蓋?も、位置を知る大きなヒントかも知れません。こういったものは、年月が経っても、そう簡単に位置が変わらないと思われるからです。

現在の記念碑の隣の墓地も以前は違う場所にあったそうなので、廃校舎後に別の施設に姿を変えるに伴い、墓地も記念碑も、何かの都合で位置を変えたのでしょうね。依然ナゾです。

いや、もう一つ最大の謎があったのですが、今日の発見によって解けました。それについては、また後ほど。今日遅くか、明日中には投稿します。

#9 に続く》

兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥