北高 校長室から 126 神戸北高「淡河校舎」#4 創立10周年記念誌

#3 の続き》

★建国記念日の今日、第3回に続いて、第4回も投稿します。

前回に続き、最後の校舎長、松下先生の文章をご紹介すると同時に、1枚の古い写真から、ある疑問点を提示します。

まずは、その松下先生の文章。
昭和57年10月8日刊行の「創立10周年記念誌」に、「輝かしい10周年に際して」と題して寄稿されたものを原文のまま掲載します。

 輝かしい10周年を迎えられ、祝着に存じます。この記念すべき機会に是非、ご関係各位に深いご理解を頂き、温かい皆様のお手を、お延ばし頂ければと念願いたしております。
 10年を迎えられまして、毎年多くの生徒が巣立たれたわけですが、御校を真っ先に巣立って参りました150名の、元有馬高等学校淡河分校からの卒業生がおりましたことを、十分ご理解いただいて下さる方は極くまれかと存じます。
 県下の定時制分校が開校されまして、30余年になります。その歳月の中で、これ等のほとんどの分校は進展する時代と逆に、惨めな終末を辿っております。これも、敗戦後の教育の民主化に翻弄(ほんろう)された哀れな犠牲者だったと私は思っております。淡河分校も又、その一つでしょう。しかし、それでも最終時、家政科2学級が存続していました。が踏み止まれず、県教育委員会のこの際、新設校への一本化こそ分校の新しい道と、執拗な説得(失礼な言葉をお許し下さい)に応え合併したのです。しかし事実は違っていたようです。それは、開校式に代表として式に参列しました36名の生徒が、予想だにしなかった霹震(へきれき)にも似た惨めさを味ったことでした。それから10年が流れました。ただ思いますことは、そのような彼女等がそれぞれ卒業に当り、母校への思慕の念をこめて運動場の周辺に、玄関脇にと、ポプラ苗木と黄楊(つげ)の木を贈って出ましたが、さぞ、すくすくと生い育っていることでしょう。何時の日か、母校を尋ねる彼女等の縁(よすが)に大切にこれからも育ててやって下さい。
 最後に、御校の益々のご発展と、職員の皆様のご多幸をお析り申し上げます。多謝。

■いかがでしょうか。
記念碑の碑文、そして、前回掲載した創立10周年記念誌の文章からみると、少しだけ「トーン」が柔らかくなっているように思います。

しかし!、この文章を読んで最もショックであったのは、後半にある下の一節です。
「開校式に代表として式に参列しました36名の生徒が、予想だにしなかった霹震(へきれき)にも似た惨めさを味ったことでした」

皆さま、いかがですか?
いったい何があったのだと思われますか?
今となっては、もう知るすべもないのかも分かりません…。

あと、「ポプラ苗木と黄楊(つげ)の木」の現在の様子については、後日、この場をお借りしてご報告させていただきます
因みに、創立10周年記念誌によると、淡河校舎の卒業生が寄贈してくださったポプラ苗木は100本!、つげの木は5本と記されています。

■今日のもう一つの話題は、前回ご紹介した「校舎竣工記念誌」の松下先生の文章に添えられて載っていた、2枚の写真のうちの1枚です。

■上の2枚の写真を下に個別に載せます。

■問題は、左の写真、「淡河校舎跡の記念碑」の写真です。

第1回( #1 )の現在の写真と比べてみてください。
今の記念碑の立地と明らかに異なります。

この写真では、記念碑は数m程度高いところにあり、階段さえ備わっているように見えます。
記念碑が最初に建てられた場所は、いったいどこだったのでしょうか?

#5 に続く》

兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥