北高 校長室から 292 文芸部作成「北高の歴史」

昨年度(令和元年度)に職員室で見つけました。20年近くに前に作られたものだと推測します(根拠は後述)。「古いモノ」に惹かれるワタクシです(笑)。

文芸部が作成した「北高の歴史」、要するに北高のガイドブックみたいなものです。所々彩色もされています。

完成品(折りたたんだ状態)は、A3判用紙の1/8の大きさなので、A6判ということになるのでしょうか。両面印刷にして用紙の中央に切れ目を入れ、器用に折りたたんで全ページを見ることができるようにしてありました。A3判状態に広げてしまったので、私は、もう元に戻すことができません(笑)。

載っている中身がなかなか興味深く、私も初めて知ったこともあるので、皆さんにもご紹介します。以下、見開きで全8ページを見ていきます。

折りたたんだ状態では、写真の半分が1ページとなるのですが、写真ではページ順通りにはなっていません。最初と最後のページが同じ見開きになっていたりします。

右ページは「表紙」ですね。左ページにある「義経八艘飛び」、そんな古い歴史があったとは知りませんでした。因みに、今年度の体育大会では、コロナの影響でこの競技は行いませんでした。

ここからは、校門のところから校舎に進み、校内各所を案内する順番となります。上の見開きでは、唐櫃台駅から校門に辿り着くまでのことが書かれています。

北高が建つ前は、この土地は一面の田んぼだったことは知っていましたが、イチゴ畑もあったとは知りませんでした。この「北高の歴史」が20年近く前に作成されたものであると思う理由は、上のページにあります。「30年 北高生を見守り続けたマキの木」との記述です。この木は、切られて今はありませんが…。

文字が途切れていますが、「小学校から時折聞こえてくるふしぎな鳴き声」とは、唐櫃小学校で飼育しているキジの声に違いありません。この2年間で、鳴く頻度が極端に下がったのですが、20年間同じキジなのでしょうか?

「大阪弁を話す自販機」のことは知りませんでした。昭和56年から校門前で、私が着任する直前の(平成31年)2月まで営業していた食堂に置いてあったのでしょうか?

「ツバメが運動場に土を取りに来る」とは、初めて聞きました。

「さざんかの並木」も、今はもうありません。玄関の校章のことを「ピカッと光って輝き続けている」と描写していますが、現在では古くなって「ピカッと光っている」とは言えません。この校章こそ、創立30周年記念事業の一環として設置されたものなのです。なので、やはり「20年近く前」というのは正しいと思います。

この見開きで私が注目したいのは、北高の背後にそびえる「逢ヶ山」の南の方を指して「シュラインロードにつながる道がある」と書いている点です。大昔には「唐櫃道」(からとみち)という名前であったルートを、今は「シュラインロード」と呼んでいます。昔、唐櫃のあたりから六甲山を越えて山陽道に向かう幹線(登山道)だったのです。

昔のこの辺の人が、たとえば大阪などに行くときには、この「唐櫃道」を通って行ったはずです。この「唐櫃道」には、多くの逸話や民話が残っています。因みに起点は、現在の神鉄六甲駅あたりです。

そのため、神鉄六甲駅は、昭和63年(1988年)までは「六甲登山口」駅といいました。今と違って、昔の駅周辺は、かなり賑わっていたらしいです。

神鉄六甲駅の周辺は、昔の呼び名で「上唐櫃」(かみからと)地区といい、有馬口駅の周辺は、同じく「下唐櫃」(しもからと)地区と言います。ともに、非常に古い歴史を持つ地区です。

ついでに言うと、有馬口駅は、神鉄が開業した昭和3年(1928年)から昭和26年(1951年)まで、「唐櫃駅」と言いました。また、現在の唐櫃台駅が新設されたのは、昭和41年(1966年)のことでした。

右ページの「校訓碑」(昭和61年度 第12回生卒業記念品)、確かに「ひっそりと」存在している感じですね。左ページの石碑は創立20周年記念として建てられたものですが、こちらは、かなり大きいです。校長室のすぐ前にあります。

これは周年記念の石碑なので、何も問題ないでしょうが、私は校長室で、この石碑に完全に背を向けて座っています。座っている私の真後ろの位置にこの石碑があるのです。

私が最初に教頭になった高校では、今の位置関係と同じく、教頭席の真後ろに(いわれは忘れましたが)魂のこもった?「石碑」があり、代々の教頭先生が最悪亡くなったり、体調を崩したりしたとの伝説がありました。幸い、私が着任したときには、石碑は離れた場所に移転されていました。

左ページに書かれている「阪神高速北神戸線」の橋ですが、北神戸線自体は、私が大学とか就職した直後頃にできたのではなかったでしょうか。結婚後、特に長女が生まれた直後だったか、この北神戸線を走って、妻の実家とを何度も行き来したのを懐かしく思い出します。

北高の背後にあるこの橋のみ、北神戸線に多くある他の橋と構造が違うことは、北高に来てから気付きました。

このページで、再び背後の「逢ヶ山」(ほうがさん)と阪神高速北神戸線の橋のことが出てきます。また、周辺の山のことも書かれていて、その中の「古寺山」(ふるでらやま)のことは、私も知っています。登ったこともあります。

歴史に非常に詳しい人たちといっしょに登ったので、色々と教えていただきました。大昔には実際に寺があったので、この名前が付いていますが、確かに素人が見ても分かる人工的構造物の跡も見て取れます。

北高には、プラネタリウムだけでなく、大型ドームの中に大型天体望遠鏡もあります。そんな高校は珍しいと思うのですが、日頃の活用ができていません。毎年12月に、唐櫃小学校の皆さんが見学に来てくれるのみとなっていて、もったいないです。何か良い活用法はないものか。

先に書いた、私の背後の「創立20周年記念碑」がある中庭。この中庭、実は、かなりすごいと思います。規模(大きさ)だけでなく、その細工も。このページには、「建設過程で出た六甲の石がみごとに生かされ」とありますが、なるほどですね。

この中庭のことは、このブログでもこれまで何度か書きましたが、少し整備して、生徒たちが日頃(休み時間・昼休みに)使えるようにしたいものです。あと、何でも突き止めたくなるワタクシなのですが(笑)、中庭の灯籠の正体を調べられそうにないのが、心残りです。

体育館前(食堂前)のベンチは、確かに北高生にはよく使われています。でも、ベンチは、最近新しくなりました。

校歌の一節が書かれていて、学校前にある「布土の森」が出てくるのですが、この「布土の森」、今は普通に「ぬのどのもり」と読んでいますが、昔は(本来は)「ののどのもり」と言うのが正しいようです。この2年で知ったことからの個人的な見解ですが。

右ページ下部の記述には、二重の間違いがあります。ここにはこだわりがあるワタクシ(笑)。

まず、(有馬高校)「淡河分校」ではありません。(有馬高校)「淡河分校」です。のちには(神戸北高校)「淡河校舎となるのですが、もう一つの間違いは、その淡河分校は、神戸北高校の「母体となった」わけではないという点です。

淡河校舎の詳細については、こちらのカテゴリーから

最初のページと最後のページです。ほんとうに、「いかがでしたか」?

以上の8ページをPDFファイルにしたものを下に掲載しておきます。印刷用にお使いください。

兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥