タイプーサム

遠い国
小林紀晴の「遠い国」を久しぶりに読み返した。
クアラルンプールで毎年行われているヒンドゥー教の祭り「タイプーサム」のくだりに、数年前、ここを読みながら落ち着かなかったときの記憶が蘇ってきた。
タイプーサム。
体や頬、舌などに長く太い針を刺し、背中に金属製のフックを何個もひっかけた半ばトランス状態にある信徒たちが、クアラルンプールにあるヒンドゥー教の聖地・バツーケーブ(バツー洞窟)を目指して歩いていく。
その大きな人のうねりに翻弄されるように、筆者もバツーケーブを目指す人波に漂いながら奇祭を俯瞰している。そして、知人の日本人2人が一緒にいながらも、筆者は興奮とともに孤独をも感じているのだった。

女たち。
チリッと舌をさす、辛い、火傷しさうな
野糞。

金子光晴の詩が突然文中にあらわれる。
その詩に使われている言葉は簡単なものであるけれど、わたしには容易に理解しがたく、それが気持ちの落ち着かない理由となっていた。

小林紀晴の旅は、金子光晴の追憶の旅でもあった。
わたしは「遠い国」で初めて金子光晴という詩人の名を知り、読み終えた後、今度は金子の旅を追いかける。