創立70周年記念式典

令和5年10月14日(土)に兵庫県立上野ケ原特別支援学校 創立70周年記念式典を挙行しました。

記念式典の前に記念公演として、同日開催された上野創作祭高等部3年生の演技をご覧いただきました。記念式典には、兵庫県教育次長様、三田市教育長様、独立行政法人国立病院機構兵庫中央病院院長様、兵庫県議会議員様、三田市議会議員様をはじめ多数の方にご出席いただきました。

受付

学校長式辞

兵庫県教育委員会挨拶

来賓祝辞

三田市教育長様

独立行政法人国立病院機構兵庫中央病院院長様

実行委員長挨拶

児童生徒会長挨拶

校訓・新校章・新校旗披露

本校の校訓は、己に克つと書いて「克己(こっき)」という漢字二文字(ふたもじ)が主題に掲げられています。これは、昭和29年の創立時に制定されました。時は流れ70年の歳月を経て、今年度新たな副題として、「目標に向かって自ら学び、感謝の気持ちを忘れず、自己の夢の実現に向けて挑戦しましょう」というメッセージを組み込みました。

新校章は、春になるとツバメの雛たちが巣立ち、校舎の周りを元気に飛び回ります。そしてその姿は、本校の子どもたちと重なります。本校を巣立ち、飛躍への願いをこめて、ユー、イー、エヌ、オー、ウ・エ・ノというアルファベット4文字を組み合わせてデザインされました。

新校旗は、本校PTAのご協力のもと、新校章の完成にともない、この度新たに製作されました。

記念品披露

本記念品の本体は、本校の生徒と高等特別支援学校 陶工班の生徒が、交流及び共同学習の一環として共同制作いたしました。

同封の台紙と装飾は小学部から高等部の全児童生徒が、紙すきや組み立て、包装をして制作しました。本体、台紙ともに本校の新校章がデザインされています。

展示物

会場手前には歴代の周年記念誌や文集「有馬富士」等を展示しました。10周年~50周年、それぞれの記念誌、文集「有馬富士」や学校新聞「上野ケ原だより」などの写真や資料から、それぞれの時代に学ぶ子どもたちの活動の様子を目にすることができました。

70年という歴史の土台の上に、校訓に示された『目標に向かって、自ら学び、感謝の気持ちを忘れず、自己の夢の実現に向けて挑戦する子どもたち』の育成を目指し、時代が変わっても、子どもたちの「知りたい」「学びたい」を支え続けることのできる上野ケ原特別支援学校であり続けたいと願います。

70周年記念誌「70年のあゆみ」より

あいさつ

 「創立70周年を祝して」 兵庫県教育長 藤原 俊平
 兵庫県立上野ケ原特別支援学校が創立70周年を迎えられましたことを心から嬉しく思います。
 本校は、昭和22年に国立兵庫療養所内に開設された「道場小学校養護学舎」を前身としており、昭和28年4月、都道府県立では日本初の病弱児対象の養護学校となる兵庫県立上野ヶ原養護学校として、ここ三田の地に開校しました。昭和40年代には進行性筋萎縮症、結核以外の慢性疾患等も受入れの対象として広げ、本県病弱教育の中心的存在として「治療・療養を要する子どもたちへの学習保障」に注力してきました。平成19年度には兵庫県立上野ケ原特別支援学校と改称し、平成20年度からは、知的障害のある子どもたちの学びの場としても重要な役割を果たしてきました。開校以来、70年間の長きにわたり、本校の発展に御尽力されました、歴代校長をはじめ、教職員、保護者、同窓会など学校関係者の皆様に、深く敬意を表します。
 兵庫県教育委員会では、最終年度を迎えた第3期「ひょうご教育創造プラン」のもと、重点テーマである「『未来への道へ切り拓く力』の育成」に向け、兵庫らしい教育を推進しています。特別支援教育においては、「兵庫県特別支援教育第三次推進計画」のもと、共生社会の実現に向けたインクルーシブ教育システムの構築をめざし、「連続性のある多様な学びの場における教育の充実(縦の連携)」と「連携による切れ目ない一貫した相談・支援体制の充実(横の連携)」を推進しています。
 このような中、本校では、コロナ禍におけるバーチャル学校の展開をはじめ、ICTを積極的に活用し、欠席児童生徒へのオンライン授業を、日常的に行うことを推進するとともに、近隣の小・中・高等学校等との交流及び共同学習に意欲的に取り組んでいます。
 兵庫県立上野ケ原特別支援学校が、70周年という節目を迎え、今後も医療・福祉・行政・教育等、様々な機関と連携しながら、三田にそびえる有馬富士のように、地域の特別支援教育の象徴としてさらに発展されることを祈念いたします。

 「創立70周年を迎えて」 学校長 塚本 久義
 本校は、昭和28年4月、有馬富士を眺む三田の丘陵地に、全国初の病弱教育を担う都道府県立養護学校として開校し、本年創立70周年を迎えることができました。
 その間、昭和53年度に高等部が設置され、「国立療養所兵庫中央病院」をはじめ、「さくら療育園」など重度重複障害児への訪問教育に取組むとともに、平成13年度からは、在宅児童生徒を対象とした訪問教育も開始されました。また、平成19年度の法改正に伴い、校名も「上野ケ原特別支援学校」に改称されました。
 平成20年度には知的障害の児童生徒も受入れ、新校舎竣工など、環境整備も拡充し、平成25年度からは、社会情勢の変化に伴い、精神疾患等により「県立ひょうごこころの医療センター」に入院する児童生徒への教育に取組むなど、全国的にも病弱特別支援学校として先駆的な役割を果たしてきました。
 本校は、これまで「克己」を校訓に掲げ、目標に向かって、自ら学び、感謝の気持ちを忘れず、自己の夢の実現に向けて挑戦してきました。本校を巣立った卒業生は小学部604名、中学部624名、高等部409名を数え、進学をはじめ、一般就労や福祉サービス事業所等、地域社会で活躍しています。今後とも、一人一人の違い、「多様性」を原動力とする特別支援学校として、仲間と協力し、お互いを認め合い高め合う、地域に根ざした学校づくりに取組んで参ります。
 この記念すべき節目に私たち教職員一同は、創造の精神をもう一度かみしめ、受け継ぎそして新たに伝統を築いていく所存でございます。
 終わりに、創立から今日に至るまでご指導、ご支援を賜りました県教育委員会をはじめ歴代校長先生、旧教職員の方々そして、PTA並びに同窓会等の多くの皆様に方に心から敬意と感謝を申し上げます。

沿革
 学校の概要と沿革 https://www2.hyogo-c.ed.jp/weblog2/uenogahara-sn/?p=6825

教育対象となる児童生徒の変遷
昭和22年( 1947) 兵庫県有馬郡道場小学校注射禍児童55名を国立兵庫療養所の病棟に収容し、道場小学校養護分校として、療養しつつ学習を試みる。平成25年3月には母校へ復帰(医療機関内での教育という形態はそれまでなく、病弱教育の魁となる)
昭和25年(1950) 県下学童の結核性患者療養施設となる。
昭和28年(1953) 県立上野ケ原養護学校創立、校舎は国立療養所病棟を借用(12月、文部省のモデルスクールに指定される)
昭和29年(1954) 病気回復をはかるため歩行訓練を開始。第1回全快祝い有馬富士登山実施
昭和33年(1958) のじぎく分校設置 (昭和43年のじぎく養護学校として独立)    
昭和40年(1965) 進行性筋萎縮症児童生徒の受け入れ開始
昭和42年(1967) 結核児は14、15、16病棟へ、筋萎縮症児は13病棟へ移転
昭和44年(1969) 結核性疾患児童生徒を第1学部、進行性筋萎縮症児童を第2学部と呼称する。
昭和45年(1970) 慢性疾患児等も教育対象とする。
昭和53年(1978) 高等部設置
昭和54年(1974) すみれ病棟に入院の重度重複障害児に訪問教育開始
平成4年(1992) 国立療養所兵庫中央病院ひまわり病棟閉鎖          
平成6年(1994) 重症心身障害施設「さくら療育園」訪問教育開始
平成8年(1996) 本校敷地内に県立高等養護学校が開設される。
平成13年(2001) 三田市在住者を対象に在宅訪問教育開始
平成20年(2008) 三田市及び近隣在住の知的障害生徒の高等部教育開始 
平成21年(2009) 県立総合リハビリテーションセンターでの訪問教育開始
平成22年 (2010) 三田市及び近隣在住の知的障害児童生徒の小中学部教育開始
平成25年(2013) ひかりの森分教室開設、教育開始  県立ひょうごこころの医療センター児童思春期センター内   
令和5年(2023) 県立総合リハビリテーションセンター訪問学級がのじぎく特別支援学校に移管

校章の変遷

 有馬富士を周りに配し、中に養護学校の養の字を図案化した。有馬富士は児童生徒のあこがれの的であり大きな生活目標でもある。

発案者 米山 毅

昭和37年6月25日制定

 春になるとツバメの雛たちが巣立ち、校舎の周りを元気に飛び回る。その姿は上野ケ原の生徒たちと重なる。本校を巣立ち、飛躍への願いを込めて、uenoという文字で表現した。
発案者 鷹合 雅彦(本校職員)
令和5年10月14日制定

校訓の変遷

 闘病生活では医学的処置の外に、わがままきままをおさえる強い精神力が望まれる。本校在学中だけでなく、終生の心の糧として持たせるよう指導する。
発案者 米山 守宏(初代校長) 
昭和29年5月13日制定

 目標に向かって、自ら学び、感謝の気持ちを忘れず、自己の夢の実現に向けて挑戦しましょう。
発案者 塚本 久義(第23代校長)
令和5年10月14日制定

校歌の変遷

校 歌
 昭和38年制定
作詞 坂本 勝
作曲 小森 光代

ぼくらわたしら
げんきになろう
やさしい先生にかこまれて
くじゃくも はとも おともだち
山の小鳥はお客さま
庭のお花はきれいだな
夕やけこやけも きれいだな
ああ うつくしいわが養護学校
上野ヶ原の わが養護学校


ぼくらわたしら
げんきになろう
安静のおしえまもろうよ
すずしい風の ふくまどで
なかよしこよしの ひるのゆめ
きょうのおやつはなんだろう
すずめがおふろでまっている
ああ たのしいわが学校
上野ヶ原の わが養護学校


ぼくら わたしら
げんきになった
まいにち見ていたありまふじ
きょうは元気に のぼりましょ
山でふるはた まどのはた
先生ありがとう さようなら
みんなの山よ さようなら
ああ なつかしいわが学校
上野ヶ原の わが養護学校

校 歌
 昭和58年10月15日制定
作詞 真田 正章
作曲 中村 純子


山紫に 水清く
心は晴れて 空は澄み
見はらす街も 北摂の
息吹き伝えて 生きている
上野ケ原よ わが母校


有馬の富士は 朝夕に
気高く聳え 我ら見る
自然の恵み 果てしなく
感受の心 忘れまじ
上野ケ原よ わが母校

慢性疾患から多様な病種の児童生徒が在籍する変革の中で、創立30周年記念を機会に新校歌を制定

校門の変遷

昭和43年3月竣工

昭和59年3月竣工

校舎及び病棟の変遷

昭和28.11.6 第1校舎竣工

昭和37.7.5 体育館兼講堂竣工

昭和43.5.15 第2校舎焼失

昭和52.2.8 北特別教室棟竣工

昭和56.6.4 管理棟竣工

平成24. 3.16 新校舎竣工

昭和32.3.31 本館竣工

昭和38.8.30 運動場造成竣工

昭和44.3.28北校舎(第2校舎)
復旧建築竣工

昭和53.12.8 南特別教室棟竣工

昭和59.3.22 校門及び
その周辺整備工事完成

昭和34.3.31第2校舎(北校舎)竣工

昭和41.2.26第3校舎及び遊歩道竣工

昭和45.5.31 東校舎竣工

昭和54.12.13 南校舎竣工

平成1.10.22 体育館竣工

昭和34年

平成25年

昭和44年

昭和59年

周辺の変遷

昭和25年

昭和62年

昭和42年

平成4年

昭和57年

平成11年

上野ケ原エピソード

上野ケ原誕生秘話(国立兵庫療養所長)
 昭和22年11月、 兵庫県有馬郡道場小学校注射禍児童の療養施設として、国立兵庫療養所内に道場小学校養護学舎が開設され、昭和25年3月、注射禍児童は治癒退院したが、当時の小川吾七郎兵庫療養所長は閉鎖するに忍びず県下の学童結核者が利用できるよう県下市町村教育長を訪ね、6月より同療養所に収容することになった。治療は国立兵庫療養所で行い、教育は県で行うべく県立養護学校の設置を陳情したことが本校誕生の大きな要因である。

上野が原(上野ケ原)について
 以前よりこの地は上野が原と呼ばれ、三輪明神窯跡の前を通り大道坂を上り詰めた付近一帯の呼称である。因みに大道坂は古代より、京都から能勢、三田を経て西国に向かう街道の難所であった。
創立当初は上野ヶ原(小さなヶ)であったが、平成19年上野ケ原(大きなケ)に変更された。

全国最初の養護学校
 昭和28年4月1日、県は公立養護学校特別措置法に先だって全国第1号の上野ヶ原養護学校を創設。病弱の児童生徒を対象とした全国最初の養護学校でもある。当時、校舎もなく国立兵庫療養所第13病棟内の仮校舎で授業をおこなった。そこは教室も食堂も詰所も療室もアイロン室も兼ね、事務室は廊下であった。24時間体制でもあった。 

退学(転学)が目標の学校
 昭和28年8月25日、第1回全快退学式が行われる。上野ヶ原で学んだ8名の子どもたちは厳しい試練に耐え心身共に健康となり全快退学していった。当時、結核は国民病と言われ多くの人が命を奪われ、重度の患者にとっては死と隣合わせの日々であった。

結核療養生活
 当時の結核には大気・安静・栄養療法がとられ、病室の部屋は冬でも全開で布団の上に雪が積もることもあった。上野ケ原は高原に位置し、きれいな空気に恵まれ、病と戦いながら、規則正しい毎日を過ごした。親元を離れた生活故、月2回の面会日が待ち遠しかった。結核はストレプトマイシン等の化学療法や外科的療法により、昭和30年代半ばから減少に転じることになる。

各界からの慰問 
 昭和30年代から50年代にかけて、県知事や各市長、教育長、プロ野球選手や関取、芸能人やミス日本に至るまで各界の著名人が多数慰問に訪れた。(映画俳優 三橋達也氏、阪神タイガース 藤田平氏、弓取式で有名な関取大田山、笑福亭仁鶴氏 オリックスブルーウエーブ 介助犬シンシア等)

有馬富士登山について
 有馬富士登山は全快転学記念として、昭和29年8月15日に第1回が実施され、14名の児童生徒が参加した。昭和31年初夏には厚生省企画映画「あの山を見てごらん」で有馬富士登山の様子が撮影された。平成元年には第100回を迎え、その時点で500人以上が登ったことになる。当時は記念誌を発行するとともに、玄関横にタイサンボクの記念植樹がされた。

高原の保養地としての賑わい
 かつてこの地域一帯は高原の保養地としての賑わいを呈していた。食料品店、酒屋、衣料品店、薬局、電気屋、写真屋、クリーニング店、スナックに至るまで生活に必要な店舗が一通りそろっていた。今も営業を続けている店舗もある。また商店街の前を通って春霞園口までバスが走っていた。

遊歩道(林道)について
 昭和41年3月、運動場及び遊歩道竣工記念式典を挙行。金井知事が渡り初めをする。当初は市道を利用する形で3ヶ所の入口があった。今は使われていないが、中央にもう一本道が存在した。まぼろしの道をさがしてみるのも一興かも!

祠について
 遊歩道脇に祠がある。普段は入れないよう施錠されているが、結核で亡くなった人の亡骸を池の畔で荼毘に付し、その遺骨を祠の下に入れた。池の付近から煙が立ちのぼっていると誰かがお亡くなりになったのだと地域住民にもわかった。毎年夏には本校の職員が祠参りをしている。

悲しい出来事
 昭和45年9月、運動会の前日、練習中の女性教員が同僚や子どもたちの目の前で雷に打たれて、亡くなるという悲しい出来事があった。雷がヘアピンを直撃し、子どもを守るかのように倒れた。その日は事故の直前まで穏やかな天気で、遠雷もなくいきなりの被雷であった。

ひまわり病棟と北校舎の関係について
 昭和44年、第1学部(結核性疾患児童生徒)と第2学部(進行性筋萎縮症児童)の2学部になる。翌年には第1学部に慢性疾患(喘息・心臓・腎臓病等)も加わり、第14・15病棟に入る。今の新校舎辺りに位置し2階建てであった。昭和51年には、ひまわり1・2号病棟に呼び名が変更された。そのひまわり病棟(p17参照)の生徒の学び舎が北校舎であった。事務室の前を通り一本の廊下でつながっていた。平成4年10月、ひまわり病棟の閉鎖、移転が発表され、それに伴い、平成5年4月第1学部も休部となる。「第1学部40年の歴史に幕」と新聞にも大きく報じられた。ひまわり病棟の閉鎖に伴い、北校舎及び特別教室棟も使われなくなったが、平成8年、その校舎を活用し、県立高等養護学校が設立されることになる。

第2校舎(北校舎)について
 昭和34年に竣工し、昭和43年5月に全焼。出火原因は不明。翌年3月に建て直された。
 平成29年11月25日(土)19時15分、1階教室から出火。この日は土曜日のため高等特別支援学校は休みで校内には誰もいなかったが、隣接する上野ケ原特別支援学校がたまたま参観日で、その日残っていた教頭が、ゆらめく炎を見つけ消火器で消し止め、2度目の焼失を免れた。

兵中訪問学級について
 昭和54年、すみれ病棟の重度重複障害児への訪問教育が始まったが、平成10年頃には隣接する病棟から本校に通う児童生徒数が減少。平成21年には、兵庫中央病院に5階建ての新たな病棟が建てられ、すみれ病棟の患者はそちらに移った。現在も卒業生が東2病棟に入院しており、本校の創作祭や宝塚北高演劇科公演の際に来校し、楽しいひとときを共有している。兵中訪問学級は令和元年まで続いた。その後旧小児センターはなくなり更地にされ現在に至っている。

桜見学から春のピクニックへ
 旧小児センターの周りや運動場の周辺にはたくさんの桜の木が植えられていて、春になると教室を出て、桜の花を見に出かけた。昭和40年代には桜見学と称し、全員で学校やその周辺、福島大池まで、足を伸ばすようになる。県立有馬富士公園ができてからは春のピクニックとして児童生徒全員で行くようになった。近年は学部、学年単位で引き継がれている。

文集『有馬富士』、学校新聞『上野ケ原だより』について  
 文集『有馬富士』は、昭和29年3月に創刊号を発行。以来令和5年第70号まで続いている。 学校新聞『上野ケ原だより』は昭和40年9月10日に発行され、当初は半年毎に発行されたが、現在では学期毎の発行となり、令和5年7月発行の第156号まで続いている。

交流等
 三田松聖高等学校との交流は昭和57年に始まり、前身である湊川女子高時代より続いている。
市立志手原小学校との交流は昭和58年より続いているが、それ以前よりホタルやカブトムシ、やまゆり等を本校に届けてくれた。
県立宝塚北高等学校(演劇科)との交流は、平成6年より続いている。
交通安全教室・警察音楽隊コンサートは平成8年より実施している。(PTA主催の時期もあり)

行事について
 創作祭は平成8年より実施され、それ以前は小中学部が学習発表会、高等部は文化祭として開催された。上野スポーツ大会は、平成22年より続いている。それ以前はスポーツ交流会であった。

修学旅行・校外学習について
 近年の修学旅行の行先は、高等部3年が東京方面(東京ディズニーリゾートを含む)、小中学部は淡路島や京都等である。昭和の修学旅行先はというと、京都、奈良、城崎、宮島、明治村、飛行機で九州サファリパークまで行ったこともある。 
 校外学習に関しては、宝塚ファミリーランド、阪神パーク、姫路城、フラワーセンター、ポートピアランド、大鳴門橋、王子動物園、大阪空港、乙原バレイ、永沢寺等である。中でも印象的なのが、昭和45年の万国博覧会見学である。特別に配慮してもらい、6月に第2学部が、7月には第1学部が日本館、アメリカ館、三菱未来館、みどり館を見学した。

映画『難病飛行』について
 本校卒業生、蔭山武史氏原作『難病飛行』完成試写会が令和5年6月24日にあった。上映後は館内割れんばかりの拍手で感動の渦に包まれた。授業シーンは実際に氏が学んだ教室で撮影された。

PTA活動について

平成20年に知的障がい生徒の受け入れが開始され、それに伴いPTA活動が活発になった。当時の保護者はエネルギッシュな方が多く、行政に直接訴え以下のようなことを切り開いていった。
平成20年 三田市から給食の提供を実現
平成22年 スクールバス導入
平成23年 リフト付きバス導入・夏休みプール開放
平成24年 PTA携帯連絡網(マ・メール)運用開始  
平成25年 USJエルモ、クッキーモンスター、アビー来校
平成26年 県特P連会長校・交通安全教室及び警察音楽隊コンサート
平成30年 TDRミッキー、ミニー、アンバサダー来校・近病P連会長校
毎年のように大きなことを実現していき、PTA活動は活気づいたが、それに比例してしごと量も膨れ上がった。PTA役員は最大時15名にのぼり、毎月のPTA月例役員会は9時半から14時半頃まで続いた。さらに平成26年には県特P連の会長校もつとめ、忙しさはピークになった。 それを機にしごと内容を見直し、持続可能でコンパクトなPTAを目指し、従来の半分程度のしごと内容に規模を縮小し役員の負担軽減につとめるようになった。

近年のPTA役員活動内容
4月 PTA月例役員会・入学式記念品贈呈
5月 PTA総会・PTA月例役員会・行政・学校・PTAへの要望アンケート配布
6月 PTAだより発行(職員紹介号)
7月 PTAアート展・PTA月例役員会・1学期活動報告発行
9月 PTA月例役員会・学校への要望・PTAへの要望(回答)
10月 PTA役員選出公示・創作祭(防災備蓄品配布)・三田市・西宮市行政訪問・施設見学会
11月 PTA月例役員会・参観日・学級懇談・懇親会・宝塚北高演劇科 
12月 PTA月例役員会・2学期活動報告・三田市、西宮市への要望(回答)
1月 PTA月例役員会
2月 参観日・学級懇談・懇親会
3月 PTA月例役員会・卒業を祝う会・卒業記念品贈呈
*年間を通して、ベルマーク回収・歯ブラシ回収・エコキャップの回収がある。
*上記以外にもP連関係の総会・理事会・研修会等があり、PTA会長は学校評議員会等への参加もある。

それ以前のPTA
基本的に病種ごとに分かれていた。
*昭和29年5月育友会創設(第1学部:結核)されるが、平成5年に第1学部は廃止される。
*昭和38年育友会より校旗寄贈
*平成 8年上野ヶ原養護学校PTA発足、前身はあゆみの会(第2学部:筋ジス)
*昭和50年代すみれ父母の会発足(重度心身障害)

同窓会について

現在の同窓会は、平成24年5月12日に設立された上野ケ原集いの会が母体となっている。
平成20年より知的障がい生徒の高等部教育が始まり、最初の卒業生が出るのに合わせ、本校のPTA活動の最盛期を支えた方たちが中心になってスタートを切った。当時は病種ごとの同窓会があり、入会は任意にせざるを得なかった。それ以来、役員の方々にはボランティアとして10年近くお世話になった。
同上野ケ原集いの会の担当表には、会長、副会長、会計、広報、学年代表、夏レク担当、バザー担当、新成人を祝う会があり、30名にのぼった。近年、新規入会者も減少傾向にあり、令和元年秋、当時の役員の方からこのままの形で続けていくのには限界を感じている旨学校側に相談があった。同窓会存続のため、翌年2月に臨時のPTA総会を開き、同窓会全員加入について諮り承認された。それと同時に活動の主体を学校側にシフトし、より簡略化した形で存続していくことになった。
 主な活動は、6月に総会、7月海の日に「夏のレクリエーション」、10月創作祭で喫茶のバザー、1月には成人(20歳)を祝う会という具合である。夏レクはいろんな世代の同窓生や教員が集いカラオケやゲーム、お楽しみイベントや歓談に花を咲かせる催しで、創作祭バザーは、創作祭の昼休みの時間を利用し、喫茶サービスや食品販売をした。また新成人を祝う会は平成2年1月まで8年間サンパレス六甲で盛大に行われた。
新型コロナ感染拡大を受けて、この3年間、創作祭でのお菓子販売のみだったが、令和4年7月18日夏レクが復活し、1月21日には成人(20歳)を祝う会も実施した。障がいのある子どもにとって卒業してからの方が長く、世間の荒波にもさらされる。学校と卒業生だけでなく、保護者と学校、保護者相互の交流の場を大切にしていきたい。
*昭和32年同窓会創設(結核)
*昭和44年に設置された第一学部の同窓会は毎年8月第1日曜日に実施し多数の参加があったが、平成15年には20名の参加に激減した。
*昭和53年に設置された高等部については、昭和63年8月に第1回同窓会を実施、毎年夏にOBや先生に集まってもらい、ビンゴやカラオケを楽しんだ。

編集後記
 

 創立70周年を迎えるにあたり、前年度の2学期に準備会議を立ち上げ、記念誌の骨子を作成することになりました。記念誌作成のために、古いアルバムや10周年~50周年、それぞれの記念誌、文集「有馬富士」や学校新聞「上野ケ原だより」などの写真や資料から、それぞれの時代に学ぶ子供たちの活動の様子を目にすることができ、改めて、都道府県立では日本初の病弱児対象の養護学校として、上野ケ原が担ってきた役割の大きさを思わされました。
 隣接する病棟から児童生徒が通学する形態が50年続いていたため、校舎の変遷に加え、病棟の変遷についてもこの度の記念誌において掲載することにしました。また、創立以来の歴史を振り返った時、医療の進展や社会情勢の変化に伴い、本校が果たすべき役割もその時々で様変わりしてきました。それらを、教育対象となる児童生徒の変遷、また、校章・校訓、校歌の変遷としてまとめることができました。
 70年という歴史の土台の上に、校訓に示された『目標に向かって、自ら学び、感謝の気持ちを忘れず、自己の夢の実現に向けて挑戦する子どもたち』の育成を目指し、時代が変わっても、子どもたちの「知りたい」「学びたい」を支え続けることのできる上野ケ原特別支援学校であり続けたいと願います。
最後に、本誌の作成にあたってお忙しい中ご祝辞を賜りました方々、数々のご尽力をいただいた方々に、心から感謝を申し上げて編集後記といたします。

創立70周年記念式典実行委員会一同