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ひょうご歴史事典

古代~近代年表 原始・古代遺跡年表
西暦 和暦 月日 できごと
631 舒明3年 舒明天皇、摂津有馬温泉に行くという。
7世紀中ごろ     このころ、播磨の石の宝殿がつくられる。
7世紀中ごろ     このころ、摂津播磨丹波但馬淡路の五国が成立する。
7世紀後半     このころ、各郡(評)に郡家(評家)がつくられる。
7世紀後半     このころ、各地の豪族により寺院が多数建立される。
8世紀初め     このころ、各国に国府がつくられる。
7世紀後半~
8世紀初め
    このころ、山陽道、山陰道などに駅家がつくられる。
710 和銅3年 3月 都が平城京に遷る。
715 霊亀1年   これ以前、『播磨国風土記』が著される。
8世紀前半 天平年間   このころ、行基が畿内各地の布教を進め、摂津国川辺郡の昆陽池などをつくるという。
741 天平13年 2月 聖武天皇が、諸国に国分寺・国分尼寺の建立を命じる。これを受けて各国で国分寺・国分尼寺が建てられる。
8世紀     このころ、摂津三田、播磨三木・高丘・志方・西脇周辺・相生などで須恵器や瓦などが盛んに生産される。
785 延暦4年 1月 長岡京遷都にともなって、淀川と神崎川の間を掘り開いて淀川と神崎川を連絡する、これ以降神崎川河口の港(河尻)が栄える。
791 延暦10年 11月 播磨国の出雲人麻呂、水児船瀬(賀古の船瀬)のため稲を献上する。
793 延暦12年 3月 長岡京遷都にともなう難波宮の廃止によって、摂津職を摂津国と改める。
794 延暦13年 10月 都が平安京に遷る。
804 延暦23年 1月 但馬国府を気多郡高田郷に遷す。
828 天長5年 1月 渤海人100余人、但馬に渡来する。
866 貞観8年 8月 播磨国加古郡で沙弥教信が往生したという。
914 延喜14年 4月 三善清行、意見封事十二ヶ条のなかで大輪田泊魚住泊の修築を献言する。
939 天慶2年 12月 藤原純友の乱が起こり、摂津国須磨付近で純友勢が上京途中の役人を捕らえる。
986 寛和2年 7月 花山法皇、書写山円教寺に参詣する。
970 天禄1年   この年、源満仲、摂津国川辺郡に多田院を建てるという。満仲の子孫は、多田を所領とし、武士団としての力を蓄える(多田源氏)。
999 長保1年 7月 淡路国の百姓、国守讃岐扶範の悪政を訴える。このころ、丹波・但馬などでも、郡司・百姓等が国守の悪政などを朝廷に訴える動きが続く。
10世紀~ 
11世紀
    このころ、県域の各国で天台宗・真言宗の寺院が多く建立される。
11世紀後半     このころ、播磨の特産品として針が挙げられる。
1077 承暦1年   この年、播磨守高階為家、白河院が発願した法勝寺の金堂・講堂などを建立して重任される。また丹波守高階顕綱も、法勝寺の阿弥陀堂を建立して重任される。
11世紀後半
~12世紀
    このころ、播磨神出で須恵器や瓦の生産が盛んになる。やや遅れて、播磨魚住でも須恵器の生産が盛んになる(東播系須恵器)。
11世紀後半
~12世紀
  このころ、各国で一宮の制度や惣社が成立する。
1102 康和4年 7月 東寺領丹波国大山荘が中世的な荘園として立券される。
1112 天永3年   この年、播磨鶴林寺法華堂(現太子堂)が建立される。
1117 永久5年   この年、播磨石峯寺境内に経塚がつくられる(県下最古の経塚)。
1137 保延3年 10月 播磨国赤穂郡久富保の田畠・在家を検注し、矢野荘として立券する。
1164 長寛2年 2月 播磨天台六ヶ寺の僧侶等、播磨酒見社に集まり、問答講を行う、以後毎年の例となる(仁平年間説もあり)。
1170 嘉応2年 9月 後白河法皇平清盛の福原山荘に赴いて宋人を見る。
1171 承安1年   この年、播磨国一乗寺の三重塔建立される(瓦の銘承安5年)。
1173 承安3年   この年、平清盛、経ヶ島(兵庫島)を築造する。
1180 治承4年 6月 平清盛、摂津国福原に都を遷す。ついで11月、京都に都が戻る。
1183 寿永2年 11月 源行家、平氏と播磨国室山に戦って敗れる。
1184 元暦1年 2月 源範頼・義経、平氏を生田森・一ノ谷に攻めて敗走させる。ついで、梶原景時等、播磨国などの惣追捕使となり、各地の平家方の所領を占領する。
1185 文治1年 11月 源頼朝後白河法皇より、全国に守護地頭を置くことを認められ、県域五ヶ国にも守護地頭が設置される。
1192 建久2年 9月 重源播磨国大部荘内に浄土堂および薬師堂を建てる(浄土寺)。
1207 承元1年 2月 幕府、専修念仏を禁止し、法然を土佐国に配流する。法然はその途中、兵庫津・高砂浦・室津に寄港する。
1221 承久3年 6月 幕府軍、京都を制圧し、後鳥羽上皇らを流罪とする(承久の乱)。乱後、東国御家人が県域にも多数の所領を獲得する。
1223 貞応2年 4月 淡路の守護長沼宗政、同国の大田文を作成する。
1233 天福1年 10月26日 播磨円教寺の石造宝筐印塔が造立される(県下最古の紀年銘石造遺物)。
1241 仁治2年 5月 丹波国東寺領大山荘の年貢を地頭請とする。
1266 文永3年 2月 前関白藤原良実、城崎温泉を訪れる。
1271 文永8年 5月 一遍、但馬のくみで念仏を修する。
1275 文永ごろ   このころ、播磨で5ヶ所の浄土宗系の念仏堂が造立される。
1278 弘安1年 12月 淡路の石清水八幡宮領鳥飼別宮の荘務について、領家地頭とが和与する。
1281 弘安4年 3月 叡尊、播磨石峯寺・摂津有馬温泉寺多田院において菩薩戒を授ける。
1281 弘安4年 3月 叡尊、播磨石峯寺・摂津有馬温泉寺多田院において菩薩戒を授ける。
1285 弘安8年 12月 但馬の守護太田政頼、同国大田文を作成する。
1289 正応2年 8月23日 一遍、兵庫和田岬の観音堂で没する。
1294 永仁2年 10月 幕府、丹波国大山荘領家東寺の訴により、地頭中沢基員に下地を分割し、年貢相当分を東寺に引き渡すことを命じる(下地中分)。
1294 永仁2年 10月 播磨国大部荘の雑掌垂水繁昌、数百人の悪党をひきいて同荘に乱入する。
1297 永仁5年 7月 幕府、播磨国矢野荘例名を雑掌と地頭との和与にもとづき、下地中分を認める。
1299 永仁末ごろ   このころ、東福寺派の潜渓処謙、播磨国平野に宝光寺を建立する、このころより播磨各地にあいついで禅院が建立される。
1302 乾元1年   この年、安東蓮聖、播磨福泊を修築する。
1308 延慶1年 12月 摂津国兵庫関の関料徴収権が東大寺に寄進される。
1314 正和3年 9月 播磨国矢野荘例名の公文寺田法念ら、同荘別名に乱入して殺害・放火などの狼藉を働く。
1318 文保2年 6月 丹波国大山荘一井谷の住人ら、年貢の定額納入を請け負う。
1325 正中2年   遠谿祖雄、丹波佐治の山中に庵居する(のち高源寺)。
1329 正中・嘉暦年間   このころ、播磨国で悪党の活躍はげしく、天下の耳目を驚かす。
1333 元弘3年
(正慶2年)
1月 赤松則村(円心)、護良親王に応じて播磨に挙兵する。
1333 元弘3年
(正慶2年)
5月 鎌倉幕府滅び、建武の新政始まる。播磨守に新田義貞が任命される。
1336 延元1年
(建武3年)
3月 新田義貞、播磨白旗城赤松則村(円心)を囲む。
1336 延元1年
(建武3年)
5月 足利尊氏新田義貞楠木正成と兵庫湊川に戦ってこれを破る(湊川の戦い)、正成討死する。ついで、尊氏、室町幕府を開く。
1343 康永2年
(興国4年)
12月 丹波の守護、荻野氏の反乱によって仁木頼章から山名時氏へ交代する。
1349 貞和5年
(正平4年)
  このころ、『峰相記』が著される。
1351 観応2年
(正平6年)
1月 足利尊氏、弟直義と戦う(観応の擾乱)。摂津・播磨でも両派の戦いが続く。
1352 文和1年
(正平7年)
7月 赤松則祐、播磨城山城を築き始める。
1360 延文5年
(正平15年)
この年、南溟昌運、但馬楞厳寺を創建する。
1377 永和3年
(天授3年)
1月 播磨国矢野荘の住人等、代官に抗議して逃散する。
1392 明徳3年 12月 足利義満、山名氏清等を討伐する(明徳の乱)。戦後、摂津・丹波・淡路細川氏、但馬山名氏、播磨赤松氏の守護配置が定着する。
1397 応永4年 4月 この年、播磨国鶴林寺の本堂、上棟される。
14世紀   このころ、丹波焼の生産と流通が盛んになる。
1401 応永8年 5月 足利義満、日明貿易を始める。このころ義満、兵庫津をしばしば訪れる。
1413 応永20年 8月 播磨国朝光寺の本堂再建される。
1428 正長1年 11月 播磨国に土一揆が蜂起し、徳政を求める。
1441 嘉吉1年 6月 赤松満祐、自邸で将軍義教を殺害する。ついで、山名持豊等、播磨城山城を落として、赤松満祐らを自害させる(嘉吉の乱)。
1445 文安2年 兵庫北関入船納帳』が成立する。
1458 長禄2年 8月 赤松氏の遺臣等、後南朝より神璽を奪い、その功により赤松政則加賀半国守護に任命される。
1467 応仁1年 1月 応仁の乱おこる。細川勝元山名持豊が両軍の総大将として戦う。
1467 応仁1年 5月 赤松政則、旧領播磨の回復を進める。
1483 文明15年 12月 赤松政則山名政豊、播磨・但馬国境の真弓峠で戦い、政則破れて出奔する。ついで、播磨の国人等、政則を廃して有馬慶寿丸を擁立しようとする。
1488 長享2年 7月 山名政豊、播磨坂本で赤松政則に破れ但馬へ退く。ついで、但馬の国人等、山名政豊を廃して、子息俊豊の擁立をはかる。
1501 文亀1年   このころ、播磨英賀の人々、浄土真宗に帰依し、念仏講が盛んに行われる。
1504 永正1年   夏、垣屋続成、但馬此隅山城の山名俊豊を攻撃する。
1507 永正4年 6月 細川澄之、養父細川政元を暗殺する。ついで細川高国等、澄之を討つ。
1508 永正5年 6月 細川高国、畿内を平定し、摂津・丹波の守護に任命される。
1514 永正11年 8月 播磨国鵤荘と小宅荘、用水を争う(鵤荘と小宅荘の水争い)。
1518 永正15年 7月 赤松義村浦上村宗、備前三石城などで戦う。
1519 永正16年 5月 淡路守護細川尚春、三好之長に阿波で殺害される。
1521 大永1年 9月 浦上村宗赤松義村室津で自害させる。
1522 大永2年 11月 但馬山名誠豊、播磨の内紛に乗じて播磨に兵を進める。
1526 大永6年   この年、但馬山名誠豊、因幡山名久通と戦う。これ以後、因幡と但馬がしばしば戦う。
1531 享禄4年 6月 細川高国浦上村宗、三好元長と摂津天王寺に戦い、赤松政村の裏切りによって浦上村宗討死する。ついで尼崎に隠れた高国も発見されて自殺する。
1538 天文7年 1月 出雲尼子詮久(晴久)、播磨を占領する。赤松政村(晴政)、淡路に逃れ、1542(天文11)年に播磨に復帰する。