生野高校 百年物語

このページでは本校の100年の歴史に関する様々な情報を掲載しています。

※現在、本校では兵庫県立生野高等学校の歴史に関わる資料の収集・展示を進めています。
 資料提供等ご協力いただける場合は、本校までご連絡をお願いいたします。
※掲載の文書は著作者の意図を尊重し、原文のまま掲載しています。ご了承ください。

「沿革・歴史」はこちら


特集 女学校の思い出(←New!)

創立記念日等について

特集 生野高校の部活動

特集 旧制中学校の発足

母校百年の歴史に思うこと~戦前から戦後へ、そして未来へ  秋山恒夫(高18期)

綱領碑・校歌碑建立さる  足立 裕(高2期、第13代校長)

生野高女の思い出  横山弥三(旧職員)

大東亜戦前の九年間  熊谷直一(旧職員)

在職当時の追想  安本昌弘(旧職員)

思い出尽きぬ在校当時  海崎たつ子(女11期)

悪夢の中の良き師  古谷利男(高1期)

駅伝の思い出  青木積之助(高6期)

 


特集 女学校の思い出(←New!)

今回は50周年記念誌「昭和38年(1963年)発行」より高等女学校に係る寄稿をご紹介させていただきます。(H31.3.26)

県立高女発足当時の思い出
  元校長 進藤真太郎
 五十周年を祝福して、三十五年の昔を追憶しつつ、其の概略を記してみました。
 昭和三年四月三十日付で就任しましたが、当時は町立の実科高等女学校から高等女学校に変更されたばかりで独立の校舎とてなく、生野小学校に仮住いしていましたが、現在の生野中学校の校地に校舎の新築工事が着々と進められていました。職員も僅か五人という、実に細かな学校で、其の上発足したばかりなので、校務の多忙に追われている間に新校舎は落成して愈々移転する運びとなりました。職員、生徒は机や椅子を運ぶ者、車の後押しをする者、皆が一団となって移転を完了しました。次にやってきたのは待ちに待った落成式でした。式は実に盛大に挙げられ、一同の感激はひとしお深いものがありました。かくして、希望に燃えた一同は、明るい新校舎ではり切って勉強に励みました。当地方では子女の多くが豊岡と福崎の県立校へ志願する者が多く、自然本校は生徒の募集難という状態にありましたので、二月の雪路を徒歩で、朝来郡内は勿論、神崎郡の北部の各小学校へ生徒の募集に廻ったものです。
 発足一年後の昭和四年には、県営移管の声が急に高まりまして、遂に県会に提案されることになりまして、種々の資料を提出せねばなりませんので、一段と忙しくなりました。同年十二月二十八日だったと思いますが、管理者の能見町長と私が県に呼びだされまして、明年即ち五年の一月五日までに指示された書類を提出する様命ぜられたのでした。この書類の調整に職員一同は徹夜を続けまして、やっと一月一日の午前三時頃に、完成させて元旦を迎えた印象が深く残っております。又移管の条件の一つに、特別教室の増築と備品費の寄附という申しでがありましたが、地元生野町では早速快諾していただきましたので、愈々五年四月一日より、県立生野高等女学校と改称され、爾来家族的雰囲気の中で楽しく日々の勉強に励んでまいりましたが、昭和十一年九月十一日付で、県立加古川高等女学校に転任を命ぜられて、第二の故郷生野とお別れしたのでした。
 終りに生野高女の生立ちに於て、地元生野町を始め朝来郡各町村民各位の教育に対する熱意と、財政援助の結晶がその基礎を築いたのですから、地方とは倍旧の親しみをもって、益々御隆盛ならんことをお祈して擱筆いたします。
(明石市大久保町寺の上)

母と子の校舎ならびに恩師の思い出
  高女四期 藤井文子
 山口村から往復三里の道を毎日歩いて通った当時の母校は、生野小学校の一部にあって、商工学校と実女が借住居の状態で柴垣校長はこの三校を兼務されていた。校舎がない位だから生徒数も少なく、先生も五、六名であったが、女高師出の藤坂先生、女子大出の中野・白土・長谷川先生、美校出の小原先生等山奥の母校に不似合なお立派な先生方であった事は私達の幸せであった。校舎独立の要望はその頃から漸次実現化し、私が結婚して東京で暮す様になった頃には、県立高女に昇格して年一回の同窓会誌も送られ、恩師や友の消息を伺えて嬉しかった。
 昭和二十年戦禍をのがれて、住みなれた東京を去り故郷の山口村に疎開して母校生野高女に娘の入学をお願いした。杉山校長や丸田先生の温かいお計いで、東京からの転校手続きを待たず入学許可を得て、四月の新学期から娘は母校の生徒になった。終戦後の学制改革で女学校から併設中学、やがて高校へ、男女共学と多難な茨の道をのりこえて現在の発展をみる迄には数々の思い出がある。中でもとりわけて高校存置の問題は特に印象深く残っている。生野町に男女二つの高校をと、育友会在校生、同窓生が一丸となっての猛運動も遂に容れられず、一校だけ存置される事になった。その高校も文化祭の後のあの出火のために焼失し、学校当局をはじめ就学全地域に大きな悲しみと波紋を及ぼした。焼跡の整理で真黒になって働く生徒の姿がいじらしく、今も目に浮ぶ。校舎復旧の陳情に町当局と協力し、内藤会長と共に何度も県庁へ足を運んだ。又復学資金の一端にと、同窓会山口支部は卒業生十八名で結婚改善劇を作りこれを各町村で上演して、資金の獲得と同時に、母校復学に対する地域全般の関心と協力を求めて、雪の但馬路を走り廻った思い出も忘れられない。
 あの「美しき誓い」の出演者!!がんこ老人であるが生高復興に真赤になって協力を叫ぶ熱情家の田路さん、村長役が板についた仲介人役の太田垣さん、理解のある清水嬢、花嫁、花婿にふんして好評をえた今村嬢に松島さん、お互に母校を思う一心で涙ぐましい程の熱演であった。
 今は皆、よきパパ、ママとなってお子達の進学にあの頃を偲ばれている事だろう。私の娘マリもはや二児の母となり育児に専念している。今更に我が身の老を感じる此頃、いのちある中にぜひ一度なつかしい皆様におあいして、過ぎし日を語りあいたいもの。創立五十周年を迎えるに当り、この記念誌を編集される御計画に心から賛同申しあげると共に、あの出火の際学校当局の責任者として、誰よりも一番に憂慮され母校復興のために日夜東奔西走のお骨折を願った今は亡き、当時の亀井校長先生の御苦労をお偲びして御冥福をお祈り申しあげている。

在校の頃
  高女二十四期 足立百合
 水清き市川のほとりの学舎に私達が入学致しましたのは、昭和九年桜花も爛漫と咲き誇る四月八日でした。
 男の先生、母を形どる女の担任に導かれ、その校内の和やかさは、誠に他校の追随を許さぬものがございました。橋を渡れば築山があり、バラの生垣に沿って右手におれれば奉安殿ありつづいて玄関、前庭には大きなソテツ、そして花壇あり、右手の川べりに桜並木も清々しく講堂、体育館兼の入口より中に入れば、廊下のすみずみにもちり一つ落ちていない清潔さ、すれ違う生徒同志も互に会釈を交し、松森、深山の女先生には紺の袴もしとやかに、今から思えば花嫁学校とも思われる程落着いた教育ぶりでした。進藤校長のシルクハット、金光校長の閲団式、井上先生のナポレオンの様な靴、横山先生の流暢な英語、熊谷先生の切口上の地歴と先生方の記憶もなつかしく、丁度その頃支那事変もたけなわとなり、英米排斥の勢は授業にまでも伸び、英語は週に一時間、数学二時間となり、裁縫は週六時間にもなってとにもかくにも袴の仕方まで教わる程女性らしきお仕込み、校内の掃除に至っては、誠に至れりつくせりで、年に一度の全但競技会に但馬内の女学校がきた際、このお便所靴をはいて入るのでしょうか、はだしで入るのでしょうかと尋ねた程でした。春は栃原のわらび狩りに始まり、白口の滝、秋は黒川の大明寺より青倉へ抜け、又或る時は竹田の朝来山まで遠征する等、今の様にバス旅行とてなく、足にもの言わせた遠足が大抵毎月あり、棒の様になった足をひきずりながら、皆におくれじとついて歩いたことも今では楽しき想い出となり、二月頃になれば、一年の総決算とも言うべき展覧会が開かれ、書道・図画・裁縫・手芸等、毎夜々々おそくまで出品準備に余念のなかったものです。展覧会の当日にはバザーが開かれ、四年は料理番「うどん、ぜんざい、うどん、ぜんざい」と目の廻る程忙しい時、教頭の井上先生の古い謹厳居士が女もののエプロンをして、甲斐々々しく手伝って下さる。そしてそのエプロン姿をたまたま廊下で見かけると思わず笑いがこみあげ、日頃こわいこわいと思っていた先生が、急に親しくやさしく感じられる程、先生と生徒はいつもいつも一つの心になって、雨の日も風の日も通いつづけて来ました。
 この度めでたく五十周年を迎え、母の母校へ子供がお世話になる程私達も古くなってしまいました。しかし母校を思う心は誰にもまけなく、益々の発展と歴代の諸先生、並に卒業生の御多幸、在校生皆様の御勉学を祈って止みません。

四十余年前の田舎の女学生
  高女十一期 中谷よし子
 昨日までのお下げ髪の小学生は、一斉におまんじゅうをのせた様な束髪に変りました。木綿の筒袖に白衿を重ねて海老茶の袴、ビロードの下げカバンを腰のあたりに、足もとだけは黒の皮靴をならしサッソウとして同じ校門をくぐり一年生になったものです。(間借時代でしたから仕方がありません)
 生徒心得何カ条かを忠実に守り短い廊下で、幾度か先生、上級生に四十五度の敬礼をいたしました。夏にはヘンテコな白の体操服に大黒様の様な帽子、通学には白木綿のパラソルときまっていました。毎日の朝礼には、必らず金剛石の合唱玉の光もそわざらむ!!としみじみ歌ったものでした。この歌詞を思うとき今も当時の教訓として心にしみています。五月の段ヶ峯のわらび狩は、年中行事の一つでした。あの頃卒業生の会を呉竹会、在校生を若竹会と言い、今も同じ竹に縁がありました。桃の節句に最上級生を招き、ちらしずしや劇や音楽などで、卒業生を送る会をいたしました。
 昔といえど卒業旅行はいたしました。今の中学生並で京都・奈良・伊勢方面四泊五日でした。メンバーの揃った私達のクラスは、とても愉快な旅でした。どこかの旅館でだれからとなく生野おどりがはじまり、さすがは生野っ子一人残らずおどりだし、すっかり愉快になって帰生してから、校長先生にきこえたとか何とかで皆赤くなったり青くなったり、でもおこごとは頂かずにすみました。けれど当時としては少し行きすぎましたかしら、今でも少し恥かしい様な気持もいたします。有頂天のあまり帰りの汽車の中へお小遣いの残り大枚五円也を、財布とも落して本当に残念でした。でも、その頃の授業料金壱円弐拾銭也でしたから、卒業の時友達としみじみ「よかったね学校は!でも試験がなかったらもっとよかったのにネ!!」ってさようならを言いました。
 何十年振りかに、学校のことをこんなに思い出す機会を与えて下さってありがとうございました。
 若い皆様の御発展をお祈り申し上げます。

五十周年によせて
  現同窓会長高女二十七期 中山二三子
 「目に青葉山ほととぎす初鰹」の句も思い出される今日この頃、母校五十周年誌によせる原稿を依頼され、おこがましゅうございますが一言思い出を綴ってお祝いの言葉にしたいと思います。
 私達二十七期生の頃の学び舎は、駅の真正面、山の麓に位する現在の中学校のところにあり、女生徒ばかりの学校でした。その頃は、支那事変、太平洋戦争のさなかの事とて、食料の増産増産で、学校でもモンペをはいて大いに農業にいそしんだものでした。そして出征兵士の送り迎えや、また学徒動員で工場に勤めるクラスもあり、めまぐるしい日々でございました。
 いま、同窓会の資産としてある山林の三町二反の植樹も私達在校生が、紀元二千六百年記念に全部植林したものでございます。地味の悪い所もあって、さほど大きくなっていないところもありますが、伐採出来る程になっている木が黒々と茂っている山を見るたびに、あの頃の作業の辛かった事もふっとんで、心あたたまる思いにひたるのでございます。
 私達が卒業した後には、女学校も発展的解消をして中学校と合併し、思いもよらなかった男女共学の高等学校に切りかえられました。しかしまもなく、校舎は第一回文化祭の夜焼失されてしまい、断腸の思いで焼けていった学び舎の跡にたたずみ、悲嘆にくれたものでございました。その上生野を廃校にし、和田山へ高校を誘致しようという運動の空気が流れたものですから、その時の動揺はおおいかくすべくもございませんでした。
 しかし生野町の方々を中心に、同窓会各位、並に校下地区の方々の御協力、はたまた在校生諸子等が力強く県へ陳情に、資金獲得に立ち上って下さったおかげで、現代的な味わい豊かな、良き学び舎が竣工いたしたのでございます。そして生徒数も、今年は一年生だけでも六クラスとなり、ここ一、二年のうちに千名にならんとしております。
 道ゆきづりに、また校門をくぐりては、今日までになったこの母校の栄え行く姿に、感慨深きものを覚えると共に、これからもより一層発展していくファイトの固りのような校風に、自ら頭の下る思いでございます。
 同窓会各位も今や全国各地に進出されており支部を東京・大阪・神戸・京都・姫路方面にもち、旧交を相あたためると共に、また後輩の指導に、就職に力添えをして下さっておる現状でございます。
 時代の移り変りと共に、男女共学の高校が誕生し、山紫水明のよき環境のもとにある、この学問の殿堂の発展を心からおよろこび申し上げると共に、過去をも含み、将来へと連らなる歴史ある学校の益々繁栄せん事を祈念して、思い出を記しておよろこびの言葉にかえさせていただきたいと思います。

 


創立記念日等について

 本校の創立記念日や校章等について生徒向け配布資料からご紹介させていただきます。(H30.10.23)

伝統担う生野高等学校

兵庫県立生野高等学校

1 5月7日(月)は本校の「創立記念日」です。今年で創立105周年となります。

 人には誰にも誕生日があり、毎年、元気にその日を迎えられたことを家族みんなで祝っています。同様に、学校も創立された日を記念日として祝います。

 本校の創立は大正2年(1913年)で、5年前の平成25年には創立100周年という大きな節目を迎え、同年11月2日に記念式典も催されました。

 当初は生野町立実科女学校として創立されました。昭和5年に兵庫県への移管により兵庫県立生野高等女学校に改称され、このことを記念し、同年5月7日に、県営移管記念式が挙行されたことから、以後この5月7日を創立記念日とすることになりました。戦後、昭和23年の教育改革により、新制高等学校としての「兵庫県立生野高等学校」が発足し、この年(昭和23年)、第1期生が卒業し、現在に至っています。

 今の1年生は第73期生、2年生は第72期生、3年生は第71期生となります。

 今年3月末までに延べ16,000人余りの数多くの卒業生を世に送り出し、先輩のみなさんはそれぞれの地域や職場で活躍されています。多くの先輩たちがここで学び、卒業し、家庭や地域を築き上げてきたこと、そして今があることを真摯に受けとめましょう。

 私たちは、先輩たちが営々として築いてきた本校の誇り高き歴史や文化を、次代に確実に、さらに良いものとして引き継いでいかなければなりません。その責任が今、ここで学んでいる私たちにあります。

2 「創立記念日」の意義を理解し、本校の歴史と伝統をみんなで再確認し、どんな高校生活を送るべきかを考える一日にしましょう。

3 生野高等学校の綱領と校章

 ①綱領 『自己を知り、自己に培い、社会を知り、社会を愛せ。』

(昭和24年12月制定)

 ②校章

笹は寒さにめげず 眞理を探究し いつも色をかえず 凜乎として節を枉げないで この銀嶺に気髙く伸びゆく 我等若き学徒の 髙き理想を象徴する

               

(昭和24年7月20日制定)

考案者 三木謙治氏(旧姓 碓井 高1期)

 

県営移管記念式のようす(昭和5年5月7日)

 


特集 生野高校の部活動

 今回は50周年記念誌「昭和38年(1963年)発行」より生野高校の部活動に係る寄稿をご紹介させていただきます。(H30.9.26)

駅伝の練習、兵庫県で優勝、全国大会に出場
  高校十二回生 林田卓之介
 昭和三十四年度全国大会は、菅尾先生監督のもとに、兵庫県代表として出場した。ちょうど十周年記念で近畿府県優勝校を除き、二校の出場が許可された。過去地域的な不利などから、県下で二、三位の苦敗に甘じ、全国への道が断たれてきた。故に陸上部に絶好の機会を迎えた。打倒飾磨工よりも記録への挑戦を期し、全国大会に目標を定めた。
 主将には私が指名され、主力の阿野・正垣中心に部員一同結束を誓い、新年度に優秀選手を加えて希望を増す。伝統と信念の協調的積極的練習を第一に、天候、体調などの悪しきも容赦せず、毎日その参加を原則とした。
 春以来一層練習量を増し、特に夏の合宿を足場に、秋には連日十四粁前後を走った。走路は高校より路面、起伏、風景の変化に富んだ上生野を往復した。常に自己は自他、精神、距離、時間と更に汗、塵、雨、風、交通と戦い続けたその結果、日々に変ずる紅葉の如く、走力は記録面に表われた。時には指示に背いて、ソフトボールなどに興じて気分転換をした。練習の苦に耐えた者は、一日の重荷を下した一種特有の解放感に満ち、我家の如き部室での会話は、反省や結局は県下制覇の夢をみた。
 十五名ながら一名として落伍者もなく、力だめしとも言うべき全但駅伝には相憎の雨。雨や寒さに自信ある我々であったから、マラソン距離の新記録、完全優勝でかざり、全国への見通しと記録的な自信を握った。
 十一月二十九日、県下駅伝は何等の不安もなく、一矢報んと欲す我々を、空は澄み、森羅万象が祝福してくれるかの如く感じられ快適な朝だった。号砲一発、阿野の快心に乗じ決勝点まで首位を維持し、四百米の差をもつけ全く快心のレースで優勝。二時間十七分四十三秒、監督と共に歩んだ数百日の宿願をみごと実現し、信念も方法も結実した。優勝の歓迎や町内パレードの陶酔に浸ることも自重し、全国大会に備え、生活は練習に一本化され、班別でスピードの養成に専念した。他の何事も考慮する余地がなかったと言ってもいい、緊張した一ヵ月を送った。
 十二月二十七日、母校のバス応援団を背に、大阪市の交通量も事とも思わず、阿野一区、三位の力走、結果は近畿で一位。しかし六十校中十四位に終った。記録の短縮も全国へは通用しなかった感じがした。
 この優勝と出場は、校内マラソンの経験、かつ駅伝を理解して下さった関係者の親愛なる賜物と部員一同信じ生涯記憶して意義深いものと思っています。

ソフト県大会に優勝
  高校十二回生 藤原弘子
 生野高校の伝統を物語るものとして、男子の駅伝と女子のソフトボールは、わが校の最も輝かしい栄光であると思います。
 私達が入学した頃すでにソフト生野の名は、毎年県大会の優勝候補として評判されていました。入学式の翌日から、もうグランドに出て練習を始めたのですが、それぐらいやり甲斐のある、チーム力の整った最高の部だったと思います。卒業後、いろいろの想い出はあってもやはり”一球入魂”の信条の下に成立していたソフト部の思い出が、回想を独占します。私だけでなく部員だった者は全部そうだと思います。
 目標は県大会の優勝で、但馬の大会など勝つのが当り前で六年間ぐらい連続優勝している筈です。県大会では毎年優勝候補にあげられながら、今一歩というところで優勝を逸していました。だからベスト四に勝残っても、三位入賞しても、決勝で1対0で惜敗しても、私達は喜びもせず、ほめてもらいませんでした。ただ一筋に県制覇を目指して、汗を口に呑み込みながら、練習を続けました。
 二年までは鵤、原田先生、三年の時は鵤、波多野(現衣川)先生が顧問で、他の部から「ソフトが強いのは当り前だ」とうらやまれる程、熱心にコーチしてもらいました。その甲斐あって、昭和三十四年八月、淡路の洲本球場で行なわれた選抜大会に、待望の優勝をなしとげ、優勝決定の瞬間、校旗がスルスルとセンターポールにひるがえり、校歌が演奏された時の感激は、今でも時々夢にみる程忘れ得ないことです。そして優勝旗を手にして生野駅に着いた時の様子は、まだ昨日の事のように思われてなりません。
 この大会の準決勝では、全国第二位の尼崎北を2-0で破ったので、私達もやれば何でもできるという強い自信を得ました。毎日三時から四時半まで、それに年中悪天候に禍されていながら、短い時間をフルに活用し、やるだけのことをやって、母校の歴史の一頁に”県優勝”の記録を残すことができたのは、やはり何といっても先輩の残されたソフト部の伝統、特に明朗な雰囲気と、コーチの先生に絶対服従した部員の心の和の賜物だったと思います。
 私たちは、こういう選手生活を送ったことを、今なお誇りとし、悔なき高校生活を送らせて頂いた母校に対して、限りない愛着と感謝の念を強く強く抱いています。

全国大会出場の思い出
  高校第十三期 藤原富子
 全日本軟式庭球選手権大会の思い出を書くようにと言われて、私自身なつかしい思い出の戸をノックされたような心持でした。戸を少し開いて中から出てくるがままに述べたいと思います。
 昭和三十六年八月一日生野を同僚達に見送られて、暖い南の国徳島に向いました。さすが南へ来たという感じは充分で、長袖の制服の中を汗が流れ落ちるやら、夜は暑さのために眠れず腹を立てたり…。
 八月三日、腹がへっては何とやら、たらふく食べ徳島市蔵本県営テニスコートに向いました。途中兵庫県代表の松蔭、市立尼崎、尼崎北と出会い共にお互いの健闘を祈って別れました。
 第一回戦 ○阿野、中村組(兵庫生野)4-2福島、白河女子高  ○藤原、杉本組(兵庫生野)4-2山形、天龍高
 両チームとも二回戦に勝進し次の試合を待ちました。コートが十五面程に比して出場チームが四百七十五というので、試合を見ている間に疲れてしまうようなありさま。
 二回戦はよく頑張ったが、三-三のデュースの末破れてしまいました。
 第二回戦 阿野、中村組3-4○千葉、長生一高  藤原、杉本組3-4○岐阜、不破高
 全く惜しいことをしてしまったと今思い出しても残念でならない。しかし松蔭が団体戦に勝利を逐げ、我々の残念な気持を一掃してくれ、しかも兵庫県のレベルの高さを示し、一層のファイトを燃やすのに大きな役割を演じてくれました。
 我々は誇りの固りのように、うきうきとしながら帰ったものでした。

 


特集 旧制中学校の発足
 今回は50周年記念誌「昭和38年(1963年)発行」より旧制中学校発足に係る寄稿をご紹介させていただきます。(H30.8.17)

県立生野中学校として発足した頃
  初代県立中学校長 加藤勝郎
 創立五十周年のよろこびの日を迎えますこと、誠に慶祝至極のことにて、双手を挙げておめでとうとおよろこびを申し上げます。この喜びの日を迎えますのも、地域社会の方々の善意のこもった御尽力、御援助の賜物と、衷心より敬意を表します。私はその五十年の間の僅か四年間ではありますが、鎖で申しますと一環にもあたりますまいが、ちょうど県立生野中学校の新設という重大な時期でもありました。
 県立生野中学校が発足しましたのが昭和十八年四月、生野地方の地域社会の熱烈な要望により、特に佐藤英太郎氏、黒沢泰三氏、山口九郎氏などの特別な御骨折りもあり、生野義挙の精神を根幹とする施策を、中学校として生野の地に創設したいとの熱意が結実して、県立生野中学校の創建となり、命ぜられてその創設の仕事に当った次第であります。
 生野高女は、その頃既に創立三十年の歴史を持ち、中学校の開校事務も生野高女内で行われ、入学考査の実施も、合格者の発表も、やはり生野高女で行われました。開校後は、仮校舎は生野国民学校内におかれて授業が始められましたものの、生野中学の敷地は五月になって整地が始り、校舎建築の起工式は翌年三月となり、その後は義禍のため、一棟の校舎の完成に実に三年の時日を費した次第で、その間の出来事で、現在では一夕話として笑話にすぎない語り草もあります。それはそれだけにその衝に当った町当局の方々、工事関係の方々が苦心され、御骨折り下さったことに対しては、敬意と感謝の意を表さなくてはなりません。
 入学式は生野国民学校の講堂で行いましたが、生野義挙の精神を体し、学業に専心努力し、地域社会の先達として、学校建学の趣旨にそい、県立生野中学校の学風を創り伝統を樹て、学校創建に期待をかけられる地域社会の人々の与望にこたえなければならないことを強調し、特に学校生徒として男女間の不純な関係をもつものや、他人の物を我が物と心得る不心得者などは、事情の如何をとわず、早速に学校を退いて貰うこと、また学校内の平静を乱し、学習の障害となる事態を起すものは、談合の上で学校を退いて貰うなど、生徒操行上の措置を明らかにしましたが、その直後「直言・明確に物申すこと」と評された次第でした。
 生野中学の創立当初の学風が、やがて伝統として後輩に継承されてゆくべきで、その指導にあたる先生の識見、手腕に期待されるものは、誠に重大なものがありますのに、なかなか先生その人が居らない。先輩がおれば無理も言えるがそれも出来ない。漸く先生が見つかっても、住宅がない、下宿がない、福崎から通勤していただいた先生もあり、二、三の先生には、鉱山の厚意により、鉱山の寮に寄宿して通学する子弟の教育指導のためという名目で、鉱山の寮の一室に起臥させて貰ったりした次第にて、先生の確保には生野町挙って御協力をいただいたように思います。然し戦況が激甚となり、戦禍は遂に先生にもおよび、志水先生の殉職、山脇先生応召後、東海地震にて死去されるなど悲しい限りでした。
 昭和二十一年四月から、未完成の一棟の校舎、壁が完全に塗られていない、黒板がない、窓には硝子が入っていない、そういう教室に無理に移りました。それは生徒数も三百を超えるし、借りていた国民学校の作法室の畳をぼろぼろにしてしまって、それ以上国民学校に迷惑をかけたくないからでした。吹き抜けの教室での授業は、その年の九月頃まで続き、生野では雨天でも、寺前以南の晴天の日は、播但線姫路までの各駅に「雨天につき生野中学本日休業」の珍掲示をだして貰ったものでした。
 昭和二十二年三月、中村学務課長(現県教委教育長)が列席されて竣工式が行われ、それも唯一棟だけであったのですが、建築の設計施工について私には責任はないとはいうものの、御苦労様の犒いの一言で、何か重荷を下したような安堵の感じと、この建築には自分も一臂の力をいたしたのだ、と錯覚ではありましょうけれど満足を感じた次第でありました。
 爾来二十年、生野中学、生野高女は県立生野高等学校として発展し、歴代の校長さんや先生方の、一方ならぬ御骨折りにより、一面生徒諸君のひたむきな努力により、生成発展の一路を辿り、学業の面でも運動の面でも生野高校の健在を誇示して、特にマラソンについては生野高校の存在はかくれない名門校として、自他共に認めるところでありましょう。老人は過去に生き、青年は未来に生きると申しますが、生野高校の一時期に右に記述しましたような先輩の歴史があります。過去を追想すれば話題は多々ありましょうが、現在の生徒藷君も先輩の残した学風伝統を、更によりよく発揚発展するよう、一段の努力精進を希望します。五十年の歴史をもつこの生野高等学校として、軈ては地域社会の福祉に貢献する人材の輩出は期して待つべしであると思います。播但線の鉄路から、整備された校地校舎の偉容を眺めるとき、特にその感を深く致します。
 創立五十年、五十年の歳月は流れ去りましたが、学校に関連を持たれる各方面の人々の真意が、この学校の歴史をつくり、その学校の歴史がまた人をつくります。今までそうであった。これからもそうでありましょう。御健闘を祈ります。
(報徳学園勤務)

回顧の一節
  前育友会長 白滝重右エ門
 私と本校との因縁は仲々浅からぬものがある。昭和の初めの頃、生野高等女学校ではじめて教壇に立たされた。女学生一般にとって一番敬遠せらるる数学と英語を担任したので、いかに努力しても好かれる先生にはなれなかったことだろう。しかしそのおかげで当時の生徒からはかえってよく覚えてもらっているかもしれないと、はかない楽しみをもっている。県立生野中学校設置がきまった当時のいきさつやら、開設準備時代の苦しくも又なつかしい思い出、新制生野高等学校になってからは育友会の仕事に関係したことなど思い出はつきない。
 数々の思い出のうちでも、県立生野中学校の校舎ができ上るまでのものが私にとっては特別に印象強くよみがえってくる。昭和十七年、町内の若い層の有志者達が、この地に高等女学校という女子中等教育の機関があるが、これと平行する男子のそれを是非つくってほしいと町の当事者に盛んに陳情したものです。しかもこの地は生野義挙の地であるので、その志士の精神を教育の根幹とする堅実剛健な校風をもつべきだと若い血をたぎらせた。町においてもその要望にこたえて、協力を約され、県や県会に猛運動の結果実現を見る事となった。建設予算が七十万円ということになったが、当時の町の一般会計予算が三十万円程だったことを思えば、まことに大仕事であった。校地をどこにしようかというので、県の学務課の人々と一緒に町内のそこここを検分して歩いたが、一団地で八千坪以上といわれると仲々見つからず、漸くにして現在の真弓の地区におちつくことになった。そこで敷地の買収にとりかかったのだが、時恰も戦争の事とて食糧確保の点から、土地を手離してもらう話は仲々困難なことであった。現地のクラブへ地主や小作の方々に度々集まってもらって町の立場をお話して協力をお願いしたが離作の問題、定価格という厄介なものがあったので、これをどう扱うかといった問題などで夜おそくまでかかったことも数日あった。しかしながらしまいには地区の方々の教育愛の尊い気持から解決して頂いたことは、まことにありがたい思いがした。
 さて愈々建築に着手したのが昭和十九年。戦争でだんだん物資の不足が甚しく、皆配給切符を貰わねば物の買えない時だった。県の学務課で切符をつくってもらうのが一苦労、そうした切符を業者に持参して現物を手に入れるのが更に一苦労で、セメントの入手しただけずつ基礎をうち、漸く外廓だけは出来上ったが、窓ガラスの入手がどうしても出来ないので待ちきれずにガラスの入らない教室で授業を開始した。雨風の日は全く授業不能で、生徒の乗車する播但線の各駅に掲示して休校をしたという今では考えられぬような悲喜劇が度々演ぜられた。こんなおかげで三年目に漸く完備した校舎ができ上った次第である。
 年月がたって今年は五十周年という記念すべき年、しかも生野義挙百年目に当る時、立派に竣工したしょうしゃな学校図書館を眺めるにつけ、まことに今昔の感にたえないものがある。

 

生野中学校設立秘話
  元育友会副理事長 福田孝
 大正二年生野実科女学校が生野小学校に借家住いをして生れ、その後実科高等女学校となり、町立から組合立、県立高等女学校、県立生野中学校と併合して県立生野高等学校と変転して早や五十年の歳月を経たのかと思うと転た感慨に堪えないものがあります。其の間の概況については、何れ先輩各位が種々お書きになる事と思いますから私は歴史にのらない歴史、いわば秘話とでもいうべきしかも重要な根基である県立生野中学校設立当初に、その関係者の一員でありましたので、その想い出の一駒を書かせて頂いて責を果したいと思います。
 生野町に於ては女子教育の為に女学校の方は既に設立を見ておりましたが、男子の為の中学校の設立迄にはその当時手がのびず、町民の間にその実現を希望する声もありましたが、実を結ぶ機会も恵まれずにおりました時、偶々大正十二年郡制廃止に伴い、郡有財産の処分の問題からその当時総予算二十四万円の内、その三分の二を負担すれば県立中学校設立認可の見通しもつきましたので関係各町村協議の上、その財源を基礎にして県立中学校設立の議がほぼまとまりました。但し生野町は既に女学校をもつため、中学校はその他の町村に設置するとの話し合いでしたが諸般の事情のため、遂にその設立を見る事なく誠に残念に想っておりました。その後生野町内有志者の間に一層強く設立を希望する声が高まりましたので、昭和八年私も故足立茂一、足立正雄、石川来太郎、白滝重右エ門、安井雍人、故太田乕一等の諸氏と共に議を練り、前回の設立運動が頓座した行きがかりもあり、且つその際、生野町を除くと言う条件もありましたので他町村の出方も気にかかりましたが、前回より既に十年の歳月も流れておりますし、約八十万円を投ずれば定員二百五十名の中学校が設立し得る予算ができましたので、その当時の生野町町税戸数割が約八万円であったので、町民各位が町税戸数割の十倍の負担を覚悟すれば建設経費の負担も可能であろうとの見込を以て、専らその線に基いて一般町民各位にPRにつとめました処、反響が意外に大きく大勢は有望、この上は愈々本格的に運動に邁進県の認可を一日も早く獲得するため、当時本郡出身県会議員山口九郎氏を招き、町長黒沢泰三氏の臨席を得てその運動方を懇請致しました処、町長黒沢氏も生野町として全面的に援助を約され、山口氏も誠に心良く引受けて呉れられ、時恰も県に於ても新年度事業計画と予算編成期に当面している様でもあり、事急を要するため、直ちにその足で上県、知事に懇請する事に運んで頂きました。
 その当時、吾が国の政状は政友会と民政党の二派が対立抗争しておりまして、その時は民政党内閣の時代で知事も民政党の官選知事でした。然し兵庫県会では政友会議員が多数を占めていまして事毎に知事と対立しており知事の施政も誠にやりにくく、その年の予算審議の議会通過も見込落であるとの見通しが強く、そこで知事は最後の手段として職権による知事の原案執行の許可を内務大臣に求める為の上京寸前に、折り良く山口県議が上県して呉れられた事になり、万事誠に都合よく、早速知事の原案に県立生野中学校新設の議を盛りこんで貰う事ができ、内務省も知事の原案執行を認めることとなったために急に県立生野中学校設立が易々と実現する事となりました。尚この知事の原案執行という事は仲々むつかしい問題で、余程重大なる理由がない限り、むやみに認可される可きものでなく、過去においても数少い実例です。
 中学校や女学校の県営移管に就いては県下各地からその希望も多く、かつ実現に各々運動を続けておられましたが、県も財政的制約をうけて仲々実現を見ない中で、本校の突然の出現は珍らしいものでありました。女学校設立後、当時柴垣校長が実科女学校を実科高等女学校に昇格変更するのにさえ、再三上京し文部省に陳情、苦心して組織変更を認められた等、その他市町村立、或は組合立では経営が困難なために県営移管を希望する学校は沢山ありまして、県立学校の実現は非常に困難なものでした。勿論山口県議は少数派の民政党に党籍を置いていられた点もありますが、同氏は県立生野中学校設立については実に有力な活動をして呉れられ、その後の施設運営等についても並々ならぬ尽力をしていただいた一人である事は忘れてはならないことだと思っております。勿論この様な政治のあり方については批判の余地もありましょうが、もしこの機会がなかったならば如何であったであろうか。町立の中学校を作って乏しい予算の遣繰りをして諸般の設備を整え、県に移管して貰うまでには相当もたつくものと思われ、地方教育発展の為に天の時を得、地の利、人の和と三拍子が見事そろった事は本当に好都合であったと喜びに堪えない次第、そして真弓原頭次ぎ次ぎに整備拡張される校舎を眺める時に、今日山口九郎氏或は足立茂、太田乕一氏等の諸賢御健在ならばと故人のために追慕の情に堪えないものがあります。その後の学校の隆盛は現実が示す通りであり、この上とも皆様の益々絶えない努力の賜物に依って、一層の生成発展を祈って筆を擱きます。


 

 以下の文章は、本校関東地区同窓会「関東銀嶺会」発行の会報誌「関東銀嶺会ニュースレターNo.9(平成30年4月発行)」より、本校高校18期生秋山恒夫氏の寄稿を掲載したものです。(H30.7.13)

母校百年の歴史に思うこと~戦前から戦後へ、そして未来へ
 秋山恒夫(高校18期、副会長、編集担当)
◆ニュースレターを通しての百年の歴史の追跡
二〇一三年の「生野高校創立百周年」を契機に、わが母校ではこの百年間にどのようなことがあったのか?、この数年、ニュースレターの編集を通して具体的にその様相を探って来た。
 最初は、第5号(二〇一三年10月発行)の後半、「創立百周年ミニ特集」として20頁の特集を組み、巻末に参考資料として独自作成の年譜資料を掲載したことだった。
 その後、第7号(二〇一六年5月発行)では、巻頭に「戦時中と新制高校が生まれた頃」というテーマで古谷利男氏(本会初代会長、高校1期)に特別寄稿をお願いし、年譜を含めて4頁を組み、移行期の様相の一端を知ることができた。
 そして前号第8号(二〇一七年3月発行)では、巻頭大特集「女学校の時代をふりかえる」計21頁を組み、戦前の女学校時代の様子を具体的に把握することができた。
 そして今号第9号(二〇一八年4月発行)では、前号に続いた「戦後移行期」と「高校草創期」に焦点をあて、20頁の巻頭特集を組むことができた。
 これら3回にわたり、戦前から戦後への時代を掘り下げたのは、何より当時を知る人たちが他界されたり高齢化され、生の話を伺う機会が失われるという焦りと危機感からだった。
 歴史発掘の試みは、今回で一旦小休止としたいが、この機会に百年間の軌跡を追って感じたことに触れておきたい。
◆百年間の生徒数の推移
 次のグラフは、この百年間の生徒数の推移を、年度別卒業生数と全校生徒数に分けて一目で見やすく表示した独自作成のもの。ここから以下のような様々なことがわかるだろう。
(1)この百年間の全生徒数は劇的変化をなし、今や百年前の時代に戻るかのような、回帰現象を呈している。
(2)百年間の卒業生の総数は、約一万六千人。(うち戦前の旧制学校卒は約一五〇〇人)
(3)戦前まで学年当たりの教育規模は30~100人規模だったが、戦後から高校17期位までは約200人規模となり、その後高校18~30期位まで300人規模の教育が行われてきた。
(4)その後、学年定員は減少一方で、63期頃には120人となり、二〇一二年の66期生からは80人2クラスの極端な小規模校に。
(5)生徒減の直接的要因は、「朝来郡」全体の人口動態の変化と密接に連動し、昭和20年から30年にかけて人口は5万人弱のピークをなしたが、40年代末からの3鉱山の閉山の影響が大きく、平成20年代には3.5万人を割るまでに激減した。
(6)近年の激減の最大要因は、八鹿高校へ生徒が流れるようになった点にある。最初の変化は昭和39年からの「中学区」制で八鹿高校が選択肢に入り、徐々に地域の中心が北部の和田山周辺に移り、交通の便のいい八鹿高校に集中するようになった。


 以下、このグラフの時間軸に沿いながら、4つの時代の特徴を考えてみよう。
◆豊かだった戦前の女学校時代
 生野高校は大正2(一九一三)年に生まれた「生野町立生野実科女学校」を母体とするが、百年間のうち約1/3の約35年間は「女学校」の時代だった。
 今や戦後の卒業生がほとんどを占める中、戦前30年以上も続いた女学校の時代の中身を具体的に知る機会は稀だろう。その点で、前号第8号の巻頭特集「女学校の時代をふりかえる」は、当時の実相を知るうえで役立つだろう。
 前号の巻末に上げた写真特集に見るように、この女学校の時代は、昭和初期の中期までは、戦後の新制高校と雰囲気が変わらず、非常に豊かな教育が行われていたことがわかる。
◆皆が必死に生きた戦中~戦後移行期
 昭和初期の不況と軍国主義の台頭により、教育も否応なく社会情勢に巻き込まれ、昭和16年12月から始まった対米戦争から、「戦時教育体制」となった。
 昭和18、19年には、旧制中等学校(高等女学校、中学校)では授業がほとんどなくなり、労働奉仕、学徒動員に明け暮れる非常に辛い日々となった。
 昭和20年8月の敗戦で学校現場は一応復旧したが、昭和23年、新制の「高等学校」制度が生まれるまでの間、様々な新旧制度が混在し、生徒や教員はそれらに振りまわされながら、戦後移行期を必死に生きたと言えよう。
 しかし高校創成期のこの時期、生徒と教員たちは自立的動きを示し、生徒会を中心に目を見張るものがあった。
◆戦後の高度成長と安定期
 やがて、新制高校も、10期生頃になると、時代は昭和30年代からの「戦後高度成長期」にさしかかり、産業社会の発展や、若者の増加とともに、生野高校の教育も軌道に乗って行った。
 特に、戦後「団塊の世代」とされる昭和22~24年生まれが入学する昭和40~42年頃には、全生徒数は千人を超えるピークに。その後、生徒数は半減しながらも、二〇〇三年頃まで約40年間は、生野高校が最も勢いがある時代だった。
 現在、OB、OGとして活躍されている皆さんの過半はこの時代の卒業生で、地元以外に各地に進出した方も多い。
◆100年を経て、目の前に迫りくる危機
 上のグラフで何より驚くのは、百年経って、母校は消えゆくかような生徒減の姿を示していることだろう。
 少子化のさらなる進行で中学生の絶対数が減り、このままでは2クラスぎりぎりの60~70人が精一杯の状況にある。
 これらの状況をどう打破するか、この百年間の軌跡を十分踏まえながら、未来にむけた問いが発せられている。
(和田山町竹田出身、埼玉県所沢市在住)

 

※ 秋山恒夫氏は関東銀嶺会において副会長、またニュースレター企画編集担当として大いに活躍され、本校の歴史について独自の調査研究を行ってこられました。
 ところが、去る6月26日、病にてご逝去されたとの連絡を受けました。ここに謹んでご冥福をお祈りするとともに心からお悔やみ申し上げます。ついては、遺稿となったこのご寄稿を再度本ウェブページにてご紹介させていただくこととします。
 また、再掲載に当たりまして、関東銀嶺会からご了解をいただきました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
 なお、秋山氏が企画編集された「関東銀嶺会ニュースレター」につきましては関東銀嶺会ホームページにて一部ご覧いただけます。


 

以下の文章は、昭和62年2月発行の「生高だより」より第十三代校長足立裕氏の寄稿を転載したものです。(H30.6.6)

綱領碑・校歌碑建立さる
 この度、銀嶺会によって、綱領碑並びに校歌碑が建立され、昭和六十二年二月二十四日、その除幕式が行われました。
 本校の綱領が制定されたのは、昭和二十四年十二月のことでありますが、この際、綱領がつくられた当時の社会や日本の状況について述べておきます。
 昭和二十四年というのは、太平洋戦争後の混乱がようやく治まり、諸改革が実施されて、日本が民主主義の建設に向けて、具体的に歩み始めたころであります。
 しかし、戦争の傷跡は深く、国内には爆撃による焼け跡がいたるところに残っており、海外からは軍人や一般居留民の引揚げがつづいていました。そして、国民は食糧難と物価の上昇によって苦難の生活にあえいでいた時代でありました。
 教育の面では、戦後の教育改革によって、昭和二十三年九月には、当時の生野中学校と生野高等女学校が統合されて、生野高等学校が誕生し、高等女学校の校舎(現在の生野中学校の場所)で、男女共学による授業がはじめられました。
 その当時は、戦後与えられた民主主義を、どうして国民の間に広げ、定着していくか、日本人としてどこに主体性を求めていくかなどが随分論議され、その意味では日本の進路や教育についても新しいものを生み出そうという清新の気に満ちた時代であったともいえます。
 なお、本校にとって忘れることのできないのは、昭和二十四年十月十一日夜半、学校が焼失したことであります。
 統合後初めての学校祭が行われ、三日間にわたる校内展示、芸能発表、体育祭が終わったその夜のことでありました。講堂と特別校舎の一部を残し、本館及び普通教室は全焼してしまったのです。「学校焼失」の知らせを受けた生徒たちは一番の列車で登校し、夜の明けぬ校庭で焼け落ちた校舎と、図書室の本のくすぶりつづける光景を見て、呆然と立ちつくし、涙を流したことは、当時の生野高校に学んだ人は今も忘れてはいないでしょう。学校焼失の悲しみ、三日間にわたる職員・生徒の手による焼け跡整地作業の思い出は今も記憶に残っていることと思います。
 その後、旧中学校(現在の本校の場所)に再び移り、授業が始められました。そのころの学校の雰囲気は、教師も生徒もこの損失をとり返さなければならないという気持ちが強かったし、焼け出されて裸一貫という開き直りの気持ちもあったように思われます。校舎焼失後は、部活動はすべて中止しており、その予算は学校の復興のためにきょ出し、金のいらない競技ということで、校内マラソン(大山マラソン)だけが行われました。当時の歌に、復興歌「不死鳥の歌」(今井広史作詞)があります。
 そういう中で、学校の在り方が論議され、綱領が制定されたわけであります。「自己を知り、自己に培い、社会を知り、社会を愛せ」この意味は、自分の奥深くに潜んでいる個性を発見し、その個性を耕し開発してゆき、自分の存在は、社会のいろいろな支えの中で成り立っていることを知り、社会の構成員としての自覚をし、よりよい社会をつくれということであります。
 この綱領は、自分から社会へ、知ること(認識)から愛へという筋道を、格調高く述べており、徳目を並べたものとは違って、含蓄のある言葉だと思います。特に「自己に培い」「社会を愛せ」など、心にくい表現であり、教育の本質を洞察した言葉です。
 この綱領をつくるについて、亀井萬三郎校長を中心に職員が論議し、当時の衆知を集めて出来上がったものだと職員から聞いております。
 つぎに、本校の校歌は今井広史先生が作詞されたもので、昭和二十五年二月十一日に校歌の発表会を行っています。先生は、生野町出身(現在は浦和市に在住)で全国応募一席に入選されたものが数篇あり、中学校・高校の校歌の作詞は百校以上もあるそうです。本校の校歌は、先生の三十七才のときのもので、体力・気力とも最も充実した頃だったと先生から聞いております。この際、格調のある校歌の中味をじっくりと味わってみて下さい。
 私が本校に着任した(帰った)のは、一昨年の四月であります。校門の前に立ったとき、歴史のある学校にしては、何か力が感じられないという印象を受けました。それは、校庭の樹木が小さいこと、そしてシンボルになるものがないためなのでしょうか。そのために立派な内容のある綱領を碑に刻んでほしいと銀嶺会(同窓会)に依頼しました。それでは考えようということになり、同窓会の役員の方々を中心に、朝来郡・神崎郡の山や川筋を歩きまわり、姿がよく、ひび(割れ目)のない石を一年余り探していましたが、栃原の山で見つけ、生野町にお願いして寄贈していただきました。
 そして、昨年の夏、やっと搬出に成功し本校の旧職員、西野象山先生、大井流月先生(いずれも日展書家)に揮豪をお願いし、佐竹石材店(佐竹正守氏・八期生)に刻字を、みどり園芸(藤原欣二氏・三期生)に造園及び石を据えていただくことになりました。石も揮豪も刻字も造園もすべて生野町及び生野高校に関係のある人たちによって完成いたしました。
 綱領碑は、二十五トン、校歌碑は十五トン、いずれも姿はよく、堂々たるもので、本当に贄をつくした立派なものです。ここに紙面を借りて、厚くお礼申し上げます。
 この度、綱領碑・校歌碑の建立にあたり、その意図を知ってもらうために制定当時の日本や本校の状況をあえて述べました。
 綱領碑・校歌碑が本校のシンボルとして、また卒業生の心の支えとして、末永く伝えられていくことを祈っています。


 

50周年記念誌「昭和38年(1963年)発行」より(H30.5.18)

生野高女の思い出
  旧職員 横山弥三
 私が生野高女に赴任したのは、昭和四年一月中頃のことでした。生野ってどんな所かしらと見知らぬ土地への淡いあこがれと、不安もちょっぴり感じながら汽車に乗りこんだことでした。姫路で乗りかえてしばらくすると、次第に山が迫ってきて空がせまくなった感じ、やがて全く山峡にわけ入った様子で木や岩が窓に触れそう奥へ行くのかと思ったことでした。さて生野に着いて、ひっそりとした小駅に降り立ちました。道ばたに雪が凍てついている静かな山の町…ぐっと旅愁に似たものが胸にせまるのでした。ふと牧水の「幾山河越えさり行かば淋しさの果てなん国ぞ今日も旅行く」を思いだしました。少し歩くとすぐ学校が見えた。後に山を負い、前には清流が岩をかんでいる…仲々趣きのある景色、そして校舎がまた小さいが、クリーム色でとても美しい。すっかり気に入りました。ひと目ぼれというわけです。当時生徒数は各学年三四十名、総数約百四十名という可愛らしいもので、まことに家族的、先生と生徒がほんとに打ち解けて、心と心のふれあった真の教育ができると、たいへん嬉しく感じました。生徒達も全く純真そのもので、みんな肉親の妹か子のように感じて、在職十三年間心からここの教育に没入することができました。私の長い教育生活中、生野時代はもっとも思い出深い時期だったと思っています。
 附近の山も野も川もまた懐しい。段ケ峯のわらび狩り、岩津の観音様、白口の滝など遠足や散歩に度々出かけたものです。遠足といえば、竹田の城山までと、粟賀の法楽寺まで学校から往復歩いた遠足は相当なものでした。昔は足が強かったんだがなと、今さら感心しています。冬は追上でスキーができたものです。その他春の山神祭、夏の螢がり、新井の河での水泳など忘れ得ぬ思い出に満ちています。クラブ活動では排球部の係でしたが、たしか昭和十二年の秋だったか、全但優勝のうれしい記録も覚えています。記憶に残る行事では、昭和四年六月頃だったか、学校代表生数名をつれて、大阪の練兵場で天皇陛下の御親閲をうけたことです。関西各地から各種団体の代表がでて、何万という大集団をなして、大練兵場で陛下を仰いで、「わが大君」の大合唱をしたその歌声が今も耳に残っています。次に昭和六、七年頃でしたが、同窓会の行事として石井漠氏一行の舞踊会や柳兼子夫人の独唱会を開いて非常に盛会だったことも忘れられません。
 その他書きつづければ思い出は尽きませんが長くなりますので、他の方々のお話にゆずり、この辺で学校の弥栄を祈りつつ筆をおかせていただきます。(甲子園学院教諭)

 

大東亜戦前の九年間
  旧職員 熊谷直一
 私は昭和七年から十六年まで、凡そ九年間お世話になりました。専任としての初代校長進藤先生に迎えられ、秋田県の能代中学校から参りました。まだ独身二十六才の青二才で、さぞお目だるかつた事と汗顔の至りです。
 煙多い鉱山町を予想して赴任したのに、案外閑静な家並に赤屋根の瀟洒な校舎でした。今の生野中学の敷地なので、桜花に包まれた景色は素晴しいものです。恰度二年前に県に移管されて、兵庫県立生野高等女学校と呼ばれ、地元の寄附で増築完成の時でした。単学級四年制の僅か二百名の生徒なので、家庭的に和やかな雰囲気です。先生方が「Aさん」「Bさん」と姓でなく名前で指名されるのが、ストライキを年中行事としている東北の中学から飛込んだ私を、第一に面喰わせたものでした。その生徒達が中年の家庭婦人になって、もう二世が在学の年頃だろうと、指折り数えて感慨無量です。
 先生方は各教科一人合計十名位、事務から校務を含めても二十名までの世帯です。各自の意見が自由に述べられて、話の纒りは早く、松茸狩など小使さんまで全員出席して、一視同仁官僚臭のない民主的な暖かい交誼でした。授業時間は週十二、三時間で、大学教授並に少いのだが、地歴の私にとっては泣き所でした。国史・東洋史・西洋史・日本地理・外国地理・通論、それに公民科・修身と八科目の新教材に追われ試験ともなれば十枚の問題作り、十冊の答案を採点せねばなりません。各教室に陳列棚が備付けられているというのに、中はガランドでした。購入の予算も少いことだし、「議論より実を行え」の生野義挙精神を発揮して、奉仕作業に猪突しました。絵巻物の模写は足立節之助先生にお願いし、地理模型は生徒が放課後積重ねます。その他蒐集した標本や時事の掲示などで、四間の陳列棚のある準備室は、壁面まで立体的に賑やかになりました。「鉱山町生野」の郷土史の研究もかなり進みました。これらの発表を兼ねた研究授業が、土砂降りの室戸台風の日(九年九月)で、忘れられない日となりました。県の満鮮視察旅行も忘れられない経験です。しかし在職中の努力の結晶が、二十四年に一瞬にして灰燼となったことは、返す返すも残念至極です。
 進藤校長が体育の専門家で、職員も揃って若く、スポーツ指導は行届いたものでした。排・籠・庭・卓の四球技を課外運動として、毎日放課後指導をやります。私は主に篭球を持ちました。新入生は当初各部を廻わり、後に好む部に固定するので、どの部も人数の割には充実します。その頃豊岡・出石・八鹿と共に、全但競技会を持ちましたが、どんな突然の悪条件がだされても、本校が毎年必ず優勝する輝かしい歴史を作りました。職員の和と熱の賜物と思いますが、生徒の体位向上は勿論、人格の陶冶に資したと信じます。太田垣先生が来任されて、栃原・渕を周る一万米のクロスカントリゲームが、年中行事となりました。連年記録が更新されて、一等は三十分台に縮りました。私の担任学級は卒業まで連続一位を保ち、その頃女学校では上級程不成績だというジンクスを、美事に破りました。斯うした伝統が今も継がれて、生野は駅伝に強いのだと微笑させられます。追上・上夜久野のスキー行、気比小学校での臨海学舎、夏休みの大山登山、十日間もかける修学旅行など、懐しい思い出はつきません。展覧会・バザーという華かな年中行事、石井漠氏の舞踊会など、今日でも羨しい生活でした。
 学校生活も充実して、姫路高女への越境組もいなくなった十一年に、がっちり基礎を固めた進藤校長が、加古川高女長に栄転され、代って加古川中学から金光校長を迎えました。その翌年日華事変に突入するのですが、年一年と準戦体制が強化されます。「歩けよ歩け」の歌の示す強歩訓練が月一回の行事となり、黒川・粟賀・越知谷・竹田と狭い谷筋は隈なく踏破されました。女子は銃後の報道連絡を受持てと、自転車皆乗指導が始められます。自転車の修理代が嵩んだが、全員皆乗したことは嬉しい限りです。非常時に備えて夏休み、校内宿泊訓練が始まり、座禅とか朗詠が課せられました。太田垣、赤松先生が応召されると、愈々身近に戦争を感じます。農業の江崎先生が見えて、土との戦も厳しくなります。鍬を初めて持つ生徒も、モンペ姿甲斐甲斐しく、春秋の農繁期に農家に動員されます。真弓の農場が職員に割当てられ、食糧難の切抜けが出来たことも有難いことでした。現校舎の東山腹に、皇紀二千六百年記念造林が企画され、苗木の育成や移植、雑草の下刈りなど、授業の欠けることも多くなります。爾来二十三年目の今日、素晴しい美林となっていることでしょう。
 私事に及んで恐縮ですが、在職九年間に結婚、一児の出生、母の死去など、数々の人生試錬に遭遇したので、生野は忘れ難い第二の故郷となりました。当時の職員で横山、西尾、清水、河瀬、増先先生は校長に栄進されました。私は伊丹から茨木と、平凡ながら元気に育英の道に精進しています。京阪神在住の当時の卒業生の会合に招かれて、昔話に耽るのが一番楽しい年輩になりました。
 おわりに母校の発展を祝し、皆様方の御健康と御多幸を祈ります。
(大阪府立茨木高校教諭)

 

在職当時の追想
  旧職員 安本昌弘
 生野高校を去って、はや五年の歳月が流れました。この間、朝夕在勤十二年のなつかしい校舎を車窓より眺めて、姫路に通勤しておりましたが、ふとした機縁でこの四月姫路に住居をうつし、ここ白鷺城の西、材木町の仮寓より西の丸の全景をながめながら、今しがた生野高校を去った気持で、思い出の一端をしたためている次第であります。戦後新しい高校が発足してまだ二十年にもなりませんが、半世紀の伝統の上にすばらしい成長をとげた生野高校に心からおめでとうと、お祝いの言葉を申上げます。私が県立の生野中学校に御厄介になったのは、まだ小学校の片隅に仮住いしていた敗戦の歳です。原爆をうけて、広島から逃げ帰っていた私は初代校長加藤勝郎先生の御依頼をうけて、二ケ月余り初めての教壇に立ったのです。当時まだ戦時色のなごりがそのままで、「二年一組足立恭一松村先生に用があってまいりました」と職員室の入口で直立不動の姿勢で挨拶していた生徒が今年飾磨高校より転勤された足立先生の少年時代の姿です。校長さんは固苦しい時代にもかかわらず、きわめて民主的な方で「僕には校長室なんか要らぬ」といって職員も事務の方も一緒の部屋に入り和気あいあいたるふんいきに皆働く喜びを見出したものです。私はこんなところにも本校のよい伝統の源があると思います。民主的な人間関係の育成ということは、戦後の大きな課題でありますが、このことは生徒も職員も去ってしみじみ味わえる美点だと思います。静かな緑にかこまれた環境は誠に教育の場として最適であると思うことは今も変りません。その後は、戦後の混乱の中に火災にも合い職員も生徒も色々な意味での苦心があったわけです。はじめから教室の壁が落ちて全くのおんぼろ校舎で、特に男子の生徒達は「伝統が浅い、刺激に乏しい」こんな言葉もしばしば耳にしたものです。然し皆よくがんばりました。中学第一回生卒業の年、磯尾校長自ら教室にのりこんで陣頭指揮、勤労作業での授業をとりもどそうとする夏休み二十日間三・四・五年生の数学の補習授業、その結果は姫中や豊中に優るとも劣らぬ成績をあげ大いに自信を得たのです。生野はよいという評判を聞いて豊中から転校してきた生徒もありました。その翌年学制の変更に際し神崎郡方面の生徒で数人姫中へ転校したものもありましたが、その中のA君は一ケ月程たって生野の方が進んでいるから復校したいと願いでたのです。(勿論転校は許可しませんでしたが)火災後入学した五回生も数は少なく、男子は六十人余りでしたが、阪大四人を筆頭に極めてよい成績をあげました。生高で退職された細見校長は、よくトィンビーの言を引用して、苛酷にすぎない環境に世界の文明が栄えることを例にして生徒を激励されたことは記憶に生々しいものがあります。私達はどんな場合でも井の蛙であってはなりません。しかしそれを自覚したものは幸いです。五年前姫路にでてみて、ここの生徒が井の蛙であることさえ気がついていないのにおどろきました。先生の講議にたいし、力のないで目でただ聞きおくといった態度でノートも取ろうとしない生徒の何と多いことでしょう。それにひきかえ生野の生徒はよく質問もするし目が生き生きと輝いていました。このことは他地区から来られた方々が異口同音に語られるところです。ただあつかましくも生高の発展のために一言述べさせていただくならば、元校長石村先生の就任の言葉の如く、「磨かれざる玉」とでもいいましょうか、いわゆる都会人の軽薄な鉱金ではなく、底光りのする立派な玉が今後も多数生野高校より生れでることを祈って回想に代えさせていただきます。
  追 記
 県立中学校の創設については、一つの挿話があります。昭和十五・六年頃六区十二隣保(女学校前)の常会の時です。中学校設立の話が真けんに議論され早速金光女学校長(その隣保の組員でした)によって設立趣意書が作られました。それが六区の常会にかかり、町全体の動きに直接影響を与えたのです。その後、隣保の人々の存在は忘れ去られてしまったので、私が生野に勤務するようになってからも益々、このことを忘れないでほしいと伝えられていたのです。名もなき民の声を生野高校の歴史のどこかに留めおいて頂くよう切にお願いいたします。
(姫東高教諭)

 

思い出尽きぬ在校当時
  前同窓会長高女十一期 海崎たつ子
 小学校の(昭和二十六年焼失)外庭に面した校舎の一隅、開け放った窓から柳のみどりが、ゆらゆらとよく私達の話を静かにきいていました。春の訪れをいち早く知らせてくれた桜は、その名残りと共に青葉の中から赤い実を覗かせて、乙女の日の感傷を慰めて呉れました。ぐんぐん成長したポプラは、今も尚小学校運動場の東に昔を語るかのように空高くつっ立っています。
 私達が母校へ入学致しましたのは、今を去る事約四十年前-こう振り返って見ますと随分古いことだと、われながら驚いてしまいます。
 卒業アルバムを開いて見ますと、とてもなつかしいあの校舎の一隅、上下六教室と二階にあった板敷きの講堂、借住居でしたが同じ小学校から上ってきた私達、別に窮屈な思いもせず、かえって気安くのんびりとしたものでした。時代の風潮から申しますと、女は静かでものやさしく、という時代で、自分の意志もはっきり表示出来ない内気な生徒もいましたが、あの時代にしては総体に明かるく、元気でした。
 今から考えますと、女学生だと一かど大人びた気分になっていましたが、今の中学生の人達のかわいらしいおかつぱ姿を見ていますと丁度同じ年令になりますので、他の方から見ればかわいらしく見えたのかもしれません。でも何しろ今と違って筒袖の着物に袴、肩から斜に鞄を下げての通学姿です。長い髪をお下げから急にぐるぐるまいてネットをかぶせ大きなピンでしっかりとめただけでも大人びた感じになってしまいます。
 校風は、その髪の如く一糸乱れず、質素、誠実で礼儀正しいものでした。毎日の朝礼は、昭憲皇太后の御歌
「金剛石も磨かずば、玉の光はそわざらむ
 人も学びて後にこそ
  まことの徳はあらわるれ」-
を斉唱しました。その当時音楽を指導して下さった稲葉先生は(現在高砂市に御健在)いろいろと新しい歌もとり入れて指導して下さいました。有名な野口雨情や西条八十の童謡等よく聞かせて頂いたり、又いつだったか、その頃の歌手(権藤さんとか-よく覚えていません)を招いていろいろな歌をきかせて頂いたことがあります。年一回位は音楽発表の夕も催されていました。
 牛島先生(旧姓斎藤先生現豊岡市に御健在)は国語、地歴、茶道等担当して頂きました。当時先生はお年が二十五才とかおききしまして、随分なお年と思いましたがほんとにお若かかったのでしたね「先生ごめんなさい」牛島先生は明かるくてそしてやさしく、内気組ではっきり自分の考えも言えなかった私をも、いつも温く導いて下さいました。
 恒例の飾磨の海の潮干狩り(いつも生野出身の浅田さんより全生徒にお菓子一包頂いておりました)秋の栃原へ栗拾いに、共につい先頃のことのように思い出されます。
 四年生の折の修学旅行は、大阪・奈良・京都方面でした。今でもよく覚えていますことは、京都の宿で私達は盆おどりをしました。浴衣等ないままに上の着物を脱ぎ長じゅばんになっておどりました。きげんよく旅行もすみ学校に帰ってみますと、校長先生宛に投書がきていました。「御校の生徒は実にけしからん、長じゅばん一枚で踊り廻った。風紀紊乱である」という風なもの、附添の先生には実に御心配をおかけしてしまいましたが、今こうしてこの思い出話を書いていますと、実に隔世の感ありです。変な踊りではありません立派な郷土民謡である生野おどりですからね。
 いろいろの思い出はありますが、紙面の都合もありますのでこの位にしておきます。ますます母校の今後の発展をお祈りしつつ。

 

悪夢の中の良き師
  高校第一回生 古谷利男
 戦火が刻々と本土に近づいていた昭和十九年に、大阪府立市岡中学校から郷里の中学校に転校を余儀なくされた十五才の少年が、その後の二十年間にどんな運命をたどっていったかを静かに振り返ってみると、世界史の流れの急流な度合いがどんなものか、今更めて認めざるを得ない。
 全くなつかしい少年時代であった。自由主義が、民主主義が、一体どんなものかも、それこそ全然我々少年にとっては無関係なものであった。勉学の合間に勤労を奉仕するのではなくて、勤労の不可能な場合のみに勉学があったのである。学校の裏に通ずる長い長い峠を勤労に汗する往復の途路には「学徒動員の歌」を高らかに合唱し乍ら歩いた。「みどりなす母校の森よ、さらばさらば、なつかしの師よ友よ、さらばさらば…ペンを捨て剣を執る腕はたくまし…」と。
 今、私は一女の父となって当時の思い出にふける時、つくづくと大人の責任を感じる。世界が平和を求める心をもっともっと高めて住みよい社会を築くことが、幼い者へのたのしい思い出を創ることになるのだ、と。
 我が母校が五十年の風雪に耐え、今年は意義深い行事が色々と立案されている由、本当にうれしい。今同窓会名簿を拝見していると大正三年の卒業生は、わずかに十四名である。その卒業生の中に私の母がいる。おそらく十四名の卒業生は羽織、袴に高い髪を結んで緊張して卒業式を迎えたのであろう。半世紀前の山間の女学生!考えてみるだけでも何か愉快にならざるを得ない。しかしそこにはまず、たのしい思い出が残っているだろう。歴史の流れとはこんなものなのだろうか。
 苦しかったことの多い戦中、戦後の少年時代の中で、一番恵まれていたのは、やはり良き師を得たことであろう。特に英語というものが今日程必要性を高めるに至っては、私は師を得たという感慨をしばしば抱く。磯田先生には英語を正確に読解し、正確に書くことのむづかしさを教えられたし、大杉先生には英語が日常生活の中でどのように血となり、肉となるべきかを全人間的に教えられたような気がする。都会の英語で我々田舎の少年の頭をキリキリ舞させられたのが磯尾校長先生であった。正に達人の切れ味というべきか。磯尾門下の逸才、佐藤補吉先生には姫路で行われた英語弁論大会の原稿の添削や指導を受けたことは、今でも決して忘れない。最後にアメリカで八年間、実際に英語の中で生活してこられた亀井万三郎先生は、すでに日本語より英語の方が流暢であったように思う。
 かく考えてみれば、現在日本英語界の第一線を行く一人として、竹村健一君の如き人材は当然の産物なのである。悪夢のような戦中戦後の中で、よき師を得たことが最大の収穫であった。
 今机上に、今年の二月五日付の大杉信夫先生からの葉書がある。寒中見舞を差し上げた御礼状である。末尾は先生の知人で東京におられる方を紹介され、一度出会って話して下さい…と記してある。
 何時までたっても先生には頭が上らない。

 

駅伝の想い出
  高校第六回生 青木積之助
 私は数ある駅伝大会で、たびたび優勝の感激にも浸ってきたが、中でも昭和二十七年の全国高校駅伝に兵庫代表として出場した時の感激は一生忘れることの出来ないものだ。
 春からの数回にわたる校内マラソンで、今迄にない強力なメンバーを作り、十二月七日の県大会に出場した。当時はスタートが姫路公会堂前で、ゴールは県庁前であった。県下の精鋭十数校が一せいにスタートを切った。生野は途中からトップに立ち、そのまま逃げ切るかに見えたが名門飾磨工業の前に後半抜きかえされ、ついに第二位でゴールインした。ところが閉会式で「優勝生野高校」と発表された。一瞬式場の皆んなは唖然とし飾磨工業の選手達は席をけって退場してしまった。無理もない、一位の飾磨工業以下二十数校が伴走した事により失格となったのだ。暫くは優勝の感激も湧いてこなかったが、時間のたつにつれ、本当に生野が優勝したんだ、我々が勝ったのだという喜びの気持で一ぱいになってきた。
 数々のカップを持って意気揚々と生野高に帰って来た。翌日からの新聞は駅伝の記事で持ち切りだった。我々は規則通りに走って堂々とやった結果の優勝だ、何も遠慮する必要はなかったが、スポーツマンの心情として全国大会の出場権だけは飾磨工業に譲ろうと県当局に申しでた。しかし県の態度はあくまで変らず、ついに生野高校が初の全国高校駅伝に出場することに決定した。出場するからには生野高校の名を恥かしめるなと全国大会迄に残された日々を田塩一校長、大井先生指導のもとに、文字通り死にものぐるいで練習した。ある時は大山へ、又ある時は奥銀谷へ、又大阪は舗装道路だから、その練習も必要だと考えて、わざわざ山口まで出かけて走りもした。いよいよ試合も近ずき、全校挙げての壮行会に勇気百倍、大阪へのり込んだ。修学旅行でしか来たことのない田舎者ではあったが、盲蛇におじずで走れるだけ走ればよいと思うと不思議にあがりもしなかった。
 第一区の一万米を五位で走り何とか責任を果したものの実力の差はいかんともしがたく、ゴールした時は十四位であった。力一ぱいやったので何の悔もなかったが、この全国大会の感激は強く胸を打ち、来年こそはこのメンバーで、そして実力で再び出て来ようと誓った。こうしたきっかけをもとに生野高校駅伝の伝統が生れたのである。私にとっても、この全国駅伝出場が陸上競技の道へ本格的に進む第一歩となり、ついに駅伝とも縁の切れぬ人間になってしまった。(葺合高教諭)