北高 校長室から 261 阪神・淡路大震災
年が明け、この日が巡り来るころには毎年、当時を思い出して切なく悲しい気持ちに駆られます。当時の写真などを見ると、涙が出てきます。あの地震を経験した私と同じくらい以上の世代の方なら、同じように思われるのではないでしょうか。
あの地震のとき、私は宝塚市に住んでいました。宝塚市は、比較的被害が少なかったと思われるかも知れませんが、私が住んでいた地域は、「飛び地」の如く、マグニチュード7の激震地でありました。住んでいたマンションは、最終的には「半壊」の判定を受けました。
私自身はまだ若く、30才を少し過ぎたばかり。二女は生後4ヶ月の時でした。あの頃は、「成人の日」はまだ1月15日固定で、あの年は日曜に当たっていたので、翌16日(月)が振り替え休日であったと記憶しています。16日夜、私は、4才になる直前の長女とともに妻が撮影するビデオに収まりましたが、その楽しい映像の続きは、瓦礫の山と化したような我が家の室内の映像となりました。
私たちが住んでいた集合住宅、マンションの棟は11階建てでしたが、下半分は最も強固な造り(「鉄筋コンクリート」造り)であったものの、私たちの住居があった上半分(上層階)は、そうではありませんでした。
その結果、下半分では、「シェーカー」にかけられたごとくの室内の惨状はなかったものの、ドアや窓の建付けが歪み、ドアなどが開かないケースが多発しました。
反面、私たちがいた上層階では「揺れ幅」が非常に大きく、正確な数値は知りようもありませんが、水平方向に1m以上激しく揺れたように思えます。例えば、テレビは横方向に吹っ飛んで、離れた壁面に大きな穴を空けていました。
地震発生時(前日夜)、私はたまたま、リビングルーム横の和室で一人で寝ました。その部屋には重厚なタンスが置いてあり、それがまともに倒れてきていたら、私もどうなっていたか分かりません。しかし幸い、揺れはタンスの長辺方向に強かったためか、タンスは倒れませんでした。ほかの3人が寝ていた寝室は、大きくて倒れてくるものがなかったのは幸いでした。
地震が起こった直後、私は、「10トン(大型)ダンプが突っ込んできた!」と思って飛び起きました。マンションの9階にダンプが飛び込んでくることなどあり得ないのに…。
先に書いたように、地震後の我が家の室内は、縦横無尽にシェイクされたごとくの悲惨な状態でした。全ての物は倒れ、リビング・ダイニングルームでは、食器棚などから出た陶器・ガラス器が割れた破片が、床一面に散乱していました。
この頃の朝5:46は、まだ夜は明けていません。停電して明かりもない中、私は室内を右往左往しました。その後、夜が明けてから、床に散乱した陶器・ガラス器の破片に気付いたものでした。
いまだに不思議なのは、なぜ私は、素足でその破片の上を歩き回っていたのに、足に傷一つ負わなかったのかということです。因みに、床の破片とは関係のない?、ふくらはぎには、傷を負っていました。
我が家のリビング・ダイニングルームで、二女が座っていたベビーチェアには、倒れてきた隣の大型食器棚の扉が突き刺さるように当たっていました。地震の発生があと2時間ほど遅かったら、二女は生きていなかったかも知れません。考えるだけで恐ろしいことです。
地震の発生があと少し遅く、世間の活動が始まってからであったなら…というのは、本当に恐ろしい想像です。
私は当時、川西市北部の県立高校に勤めていました。川西市、それも北部となると、学校や生徒の家庭の被害は酷くはありませんでした。当時は、赴任後最初に担任をした学年の生徒たちが卒業して2年ほどが経ち、2回目の学年の担任をしていました。
その1回目の卒業生の一人、Tさんが、あの地震で亡くなりました。保母さん(当時の呼び名=保育士)になるために西宮市で一人で住んでいて、被害に遭ったそうです。川西市にいたなら、そんな目には遭わなくて済んだだろうに…。
授業のみで担任をしたことはない生徒でしたが、普段よく話をしに来てくれたりして、印象深い生徒でした。生きていれば、今はもう40歳代後半…。彼女の明るい笑顔は、いまだにはっきりと私の脳裏に焼き付いています。
あの未曾有の大災害、私たちは、何とか復興を成し遂げたと言えます。しかし、天災は、私たち人間の都合は考えてくれません。その後も、東日本大震災をはじめ、何度も大きな天変地異が起きています。
あの阪神・淡路大震災が起きる前、私たちの多くは、あんな大災害が起きるとは微塵も予想していなかったと思います。これから先についても、同じことが言えると思います。
阪神・淡路大震災を経験した私たちができることは、あのような災害は本当に起きること、そして、いつ起きるかはこちらの都合を考えてはくれないことを若い世代に伝え、今後来るべき大災害に備え、被害をできるだけ少なくすることだと思っています。
このページに掲載の写真は、三田市にお住まいの写真家、武本俊文さんからいただいたものです。武本さんが撮影され、デジタル化された写真466枚の提供を受けたのは、ちょうど1年前のことでした。武本さんは、地震発生直後から2月頃まで、JR/神鉄三田駅周辺と三宮/元町界隈の様子を多くの写真に収められました。
このページに載せる際、私だけでなく一般の方々にも馴染みがあるであろう、三宮~元町の風景が写っているものを選ばせていただきました。よくご覧いただくと、場所が分かっていただけるものが多いと思います。
兵庫県立神戸北高等学校
校長 長澤 和弥