「こころ」

 定時制工業高校で校長をしていた時のこと。ある国語の先生が、夏目漱石の「こころ」を授業で扱うというので、見せてもらった。

 「こころ」といえば、「先生」が親友の「K」と「お嬢さん」をめぐって精神的に対立する人間ドラマであるが、思春期の生徒たちにとってはそれこそ「こころ」動かされる内容である。授業は、「先生」が「K」と散歩しながら「お嬢さん」をあきらめさそうと追い詰める場面。大学の図書館から出て上野公園へ。そこで残酷な「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉を「K」にぶつける。

 仕事の疲れが出たのか、生徒たちは眠そうである。すると、先生は黒板に模造紙を張り付けて、「ここが先生とKが歩いたルートです。小説では冬の場面ですが、私は夏休み、実際この道を歩いてきました……」と。

 それまで生徒たちは「小説の中の話」を聞いているだけ、であったのが、この時突然実体験を伴うドラマになった。生徒たちの目が光る。下宿までの道を歩く二人の心の動きが見え始める。

 生徒を引き込む授業とは何か。頭の中だけで組み立てた授業ではこうはいかない。若い先生から教えられる1時間だった。