ぶらり相生第17号「赤松氏と播磨」

 前号では、国史跡感状山城跡を紹介しました。室町幕府の要職にあった赤松氏の居城です。他に播磨の地には、白旗城跡、 置塩城跡があります。赤松氏は、播磨の地で勢力を得て、播磨の地で滅び、復活します。
 赤松円心は元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子護良(もりよし)親王(大塔宮(おおとうのとうみや))の令旨を受けていち早く挙兵し、建武政権の樹立に多大な功績を挙げたことから、建武の新政において播磨守護職に補任されます。後、新政から離反した足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、延元元/建武3(1336)年の湊川の戦いにおいて尊氏を勝利に導く遠因を作り、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなります。
 時は流れ、6代将軍義教は将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせます。この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9(1437)年には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れます。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12(1440)年に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまいます。「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は「狂乱」したと称して隠居します。
 満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招きます。この宴に相伴した大名は管領細川持之(もちゆき)、畠山持永(もちなが)、山名持豊(もちとよ)、一色教親(のりちか)、細川持常(もつつね)、大内持世(もちよ)、京極高数(たかかず)、山名熙貴(ひろたか)、細川持春(もつはる)、赤松貞村(さだむら)で、義教の介入によって家督を相続した者たちばかりです。一同が猿楽を観賞していた時、甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が義教の首をはねてしまいます。
 満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいました。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去します。
 本拠地の播磨坂本城に帰った満祐は、足利直冬(足利尊氏の庶子、直義の養子)の孫の義尊を探し出して擁立し、大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとしました。その後細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から、播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定します。山名持豊は但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があり、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍します。
 持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲します。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移ります。赤松一族は城山城へ籠城しますが、山名一族の大軍に包囲されます。義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまいます。幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹します。
 赤松氏が再興される歴史は、またの機会とします。お楽しみに。