ぶらり相生第13号「赤穂義士と相生」

 赤穂義士といえば、お隣赤穂市の話では・・・。しかし、相生市にも赤穂義士は存在したのです。
 浅野陣屋の北側の小さなお堂の中に、黒いだるまさんが安置されています。地元の言い伝えでは、通称寺坂吉右衛門(信行)といわれています。言い伝えによると、吉良邸討ち入りの様子について、浅野家ゆかりの者へ、家老大石内蔵助(くらのすけ)から切腹すること(吉良邸討ち入りの罪)を止められ、後の世の人に伝えることを命じられたといわれています。
 さて、寺坂吉右衛門とは、どのような人だったのでしょうか。父は赤穂藩浅野家家臣で船方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野(現相生市若狭野町)に生まれます。26歳の時、赤穂藩の足軽(浅野長矩直臣(ながのりじきしん))となります。江戸城松之大廊下の刃傷事件後の赤穂城明け渡し前の同志との血判の義盟には、足軽の身分の寺坂は加わっていません。しかし、寺坂の強い願いから、大石良雄は義盟に加えることにします。
 元禄15(1702)年12月14日の吉良邸討ち入りでは、寺坂は裏門隊に属しています。しかし、討ち入り後に赤穂義士が泉岳寺(せんがくじ)へ引き上げた際には、寺坂の姿がなかったことからさまざまな説がささやかれることになります。
 討ち入り後の寺坂には、大目付の仙石久尚(浅野長矩の親戚)の決定により一切の追手はかかりません。のち、寺坂は土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清に仕えて士籍を得ることになります。
 赤穂義士というと、赤穂ということになりますが、相生にもゆかりの人物がいたことは歴史を感じますね。