1月17日(金)朝、震災追悼行事を行いました。校内放送を通じて追悼メッセージを伝え、生徒・教職員が黙祷しました。
【追悼メッセージ全文】
今年は、阪神・淡路大震災から25年の節目の年となります。
25年前の今日、私は尼崎に住んでおり、朝の5時46分、地震の揺れと言うより、強烈な衝撃に下から突き上げられ、目を覚ましました。外では電信柱と電線が揺れ、近くの阪神高速道路が横倒しになっていました。7時頃学校に行くと、コンクリートの池の底が割れ、棚が倒れ、机が乱れていました。電気ガス水道が止まり、電話も通じませんでした。
その後、学校に来た何人かの先生で、生徒のみなさんの安否確認に自転車で回ることになりました。はじめに行った生徒のアパートは、崩れて、燃えており、本当に背筋が凍りました。近くの避難所でご家族みんなの無事を確認し、ほっとしたのを覚えています。
夜になっても、電線が垂れ下がり、ガスの臭いがする中、瓦礫をかき分けて、連絡の取れない生徒や先生の家を回りました。そんな日がしばらく続きました。
とある市民体育館には数え切れないくらいの棺桶が並びました。死者6434人、多くの命や家や、大切なものが一瞬で失われました。
ただ、その頃、気づいたことが2つあります。一つ目は、その時の人々の「共助」お互い助け合う姿勢です。学校の体育館などの避難所では、みんな協力して生活していました。例えば給水車が来て、水をもらいに行くときも、子どもだからと言って順番を抜かすこともなく、様々な人々がみんなちゃんと整列していました。また、海外の映像にあるような略奪やお店からものを盗んだり、と言うこともほとんどありませんでした。
もう一つ気づいたことは、案外みんな、我慢強いな、ということです。例えば今、中東情勢の混乱などで石油・LNG等が完全に止まって、電気やエネルギーが止まって、スマホも使えない。満足に飲み食いできない、そうなったらどうですか?イライラが募って、攻撃的になったりしませんか?世界の歴史では、その国民のイライラをそらすためによその国を攻めていって、戦争になったところもあります。
ところが当時、電気が止まり、風呂にもしばらくは入れない状態でしたが、そうなってしまえばなんとかなるもので、この国で暮らす人々の適応能力は素晴らしいと思いました。
あの日から25年─私たちは、阪神・淡路大震災、東日本大震災をはじめとした自然災害や人為災害によるすべての犠牲者の御霊を慰め、過去の災害に学び、「最悪の場合にどう備えるのか」を考え、次なる災害に日々備えることが大切です。
ことに近年のスーパー台風の襲来や、最近でも関東で広域長期の大停電も発生しています。それでなくとも近い将来には首都直下や南海トラフ巨大地震、大規模火山噴火の発生が危惧されています。今や災害はどこで起きても不思議ではありません。
日頃の、また最悪の場合の、自分自身の在り方生き方を、自分自身に問いかけてみる機会としてください。
以上です。